双葉葵

いかなれば その神山の あふひぐさ としはふれども ふた葉 なるらむ (新古今和歌集:小侍従)
Ikanare ba sono kamiyama no afuhi gusa toshi ha furedomo futaba naru ramu (Shinkokin Wakashū:Kojijyu)

『新古今和歌集』に撰集された一首の詞書には、「葵をよめる」とあります。一首を詠んだ小侍従は、平安末期~鎌倉初期に後鳥羽院の歌壇で活躍した女流歌人です。『新古今和歌集』夏部で「更衣」「卯の花」に続く「葵」のなかで式子内親王の「葵」を歌題として詠まれた一首に次いで排列されています。

「葵」を歌題としたものは『千載和歌集』夏部に2首みられます。源平の戦乱による都の荒廃を背景に藤原俊成(ふじわら の としなり)によって編纂された『千載和歌集』での「葵」2首は、院政期の歌壇で活躍した藤原基俊(ふじわら の もととし)が『堀川百首』で「葵」を歌題として詠まれた一首、賀茂の齋院に奉仕の後、俊成に師事した式子内親王の賀茂祭への懐古の想いを詠まれた一首がみられます。

あふひ草  てる日は神の こころかは かけさすかたに まつなひくらむ( 藤原基俊 )
神山の ふもとになれし  あふひ草  ひきわかれても 年そへにける  ( 式子内親王)

俊成が『千載和歌集』夏部の歌題として類例が少ない「葵」を採り上げた2首からは、都の初夏の風物、賀茂祭を象徴するものとして「葵」を捉えていたことが窺えます。俊成は紫式部が『源氏物語』第9帖「葵」で賀茂祭の壮麗さを伝えているとおり、貴族の祭りである賀茂祭を象徴する「葵」に都の栄華を託したように思います。

『千載和歌集』に次ぐ『新古今和歌集』での「葵」は、武家政権へと変革する時代にあっても王朝の雅を象徴する祭りが未来永劫、執り行われていくことを祈念する思いが込められているように思われます。小侍従の一首は葵草に寄せ、賀茂祭が行われる賀茂神社の背後にある神山に神が降臨された時から、永い年月を経ても葵草は今生えたばかりの双葉のままであると華麗な祭りが毎年行われることを讃えました。

また、『新古今和歌集』以降の勅撰和歌集の夏部をみると、新勅撰・続古今・新後撰・続後拾遺・風雅などの勅撰和歌集で歌数は少ないものの、「葵」を歌題とした歌が排列されており、都の夏の風物として賀茂祭の「葵」が歌題として定着したことを示していると思います。

茎の先に2つの葉を向かい合うようにつけた様は、生命力溢れる芽吹いた草の双葉の姿を思い起こします。現代の京都の賀茂祭でも社殿に葵が飾られ、祭りの奉仕者が葵を身に付けることから葵祭とも呼ばれています。初夏を告げる賀茂祭(葵祭)を象徴する双葉葵の生命感に寄せて詠まれた一首を和紙による双葉葵と書で表しました。

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