植物と文学:Plant in the literature」カテゴリーアーカイブ

月に白菊

さえわたる 光を霜に まがへてや 月にうつろふ 白菊の花( 千載和歌集:藤原家隆 )
Sae wataru hikari wo shimo ni magahete ya tuki ni usturofu shiragiku no hana
( Senzai Wakashū:Fujiwara no Ietaka )

月の光を自然観照の中心に詠まれたところに家隆ならではの歌風が表れた一首。家隆の一首は、平安末期~鎌倉時代へと移り変わる源平の争乱を背景とした時代に編纂された第7番目の勅撰集、『千載和歌集』秋歌下で、「菊」を歌題に詠まれた一群に排列されています。

秋は澄み切った境地を月の光に託すのに最も相応しい季節。一首は、家隆独自の研ぎ澄まされた美意識を霜・月・菊と白い景物を重ねて詠み込むことで静寂な世界を際立たせています。

晩秋、白菊は霜が降りる頃、紫に花色は移ろいます。家隆の一首からは、月の光に照らされた白菊は、花色は白か紫か、はっきりとはしておらず、白一色の冬の穢れのない清浄な世界へと移ろうことを予感させます。

秋から冬へと季節の推移を白を基調に詠まれた一首を書で表しました。

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柞(ははそ)の紅葉

佐保山の 柞(ははそ)のもみぢ 散りぬべみ 夜さへ見よと 照らす月影 (古今和歌集:よみ人しらず)
Sahoyama no hahaso no momidi chirinubemi yoru sahe miyo to terasu tuki kage ( kokin Wakashū : Yomihitoshirazu )

奈良の佐保山の雑木林の色づく木々の葉。今にも散ってしまいそうなので、夜さえも見よと月影が照らしていると詠まれた一首。一首は、『古今和歌集』秋歌下で「菊」を歌題とした歌に続き、冬を前に「落葉」を歌題とした一群に排列されています。

柞(ははそ)とは、里山の雑木林に林立する、コナラやクヌギなどのドングリのなる落葉高木をいいます。落葉前には黄色、赤褐色、茶褐色など、一葉ごとに色づき加減にも変化に富み、山野を彩り豊かに輝かせます。

雑木林の木々の紅葉が月光に映えて輝きを増し、月も落葉してしまうのを惜しむかのように照らしていると捉えた一首は、自身の紅葉への深い愛惜を月に投影しています。

落葉前の秋の澄んだ冷気の中、ひと時の里山の煌めきを詠まれた一首を書で表しました。

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薄紅葉

夕づく日 むかひの岡の 薄紅葉 まだき さびしき 秋の色かな(玉葉和歌集:藤原定家)
Yufu duku hi mukahi no oka no usumomiji madaki sabisiki aki no iro kana
(Gyokuyou wakashū:Fujiwara no Sadaie)

夕日が射す向いに見える丘の紅葉。まだ薄紅葉であるが、秋の寂しさを感じさせると詠まれた一首。定家の詠んだ一首は、伏見院の院宣によって京極為兼が撰定した『玉葉和歌集』秋歌下で、「薄紅葉」を歌題とした一群に排列されています。『新古今和歌集』以降、新味が失われた歌壇に新風を興したのが、藤原定家の曾孫にあたる京極為兼が中心となった京極派と呼ばれる流れです。

『玉葉和歌集』では「薄紅葉」から次第に秋が深まり落葉前の、冬へと移ろう季節の推移を歌の排列によって伝えています。「薄紅葉」は中秋の頃、木の葉に緑の残る、淡く色づき始めた紅葉をいいます。一首は、色づき始めたばかりの紅葉が、夕日に照り映えて深秋の趣を感じさせます。

定家の一首は、四季の中でも色づく葉色が織りなす、色彩豊かな深秋を想起させるイメージを夕日の光線によって感じ取り、「秋の色」という言葉によって季節に漂う気配を表現しています。

京極派では「いろ」を色彩を表す以外に、「春の色」「秋の色」といった「いろ」という言葉を用いることで、季節の気配・風情・情趣などの意を表したところに特異性が表れています。

定家の一首は、「秋の色」という言葉によって、色艶やかな紅葉に彩られた落葉前の秋の物悲しい情趣を想起させます。定家が季節の気配を「いろ」という言葉に託し、イメージを浮かび上がらせた表現が、京極派の歌人に響いたように思われます。

四季の中でも豊かな色彩美を見せる秋の印象を「いろ」という言葉を用いて繊細に表現された一首を書で表しました。

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野辺の秋

小倉山 ふもとの野辺の 花すゝき ほのかにみゆる 秋のゆふぐれ(新古今和歌集:よみ人しらず)
Ogurayama fumoto no nobe no hana susuki honoka ni miyuru aki no yufugure
( Shinkokinwakashū:yomihitoshirazu )

仄暗いという名の小倉山。秋の夕暮れ、山のふもとの野辺一面に生える薄の穂が微かに見えると詠まれた一首。小倉山は和歌に詠み込まれる名所、「歌枕」として古くから数々の歌に詠まれてきました。一首は、山の名の「小倉」に仄暗いを表す「小暗(をぐら)」を掛けて詠まれています。

小倉山の山麓を詠まれた一首は、『新古今和歌集』秋歌上で、薄を歌題として詠まれた一群に排列されています。『古今和歌集』より、「薄」は「秋風」と組み合わせ、秋風に靡く花穂が揺れ動く様に託し、秋の情趣を詠まれた歌が勅撰和歌集に撰集されてきました。

『新古今和歌集』のよみ人しらずの一首は、秋風に大きく靡く動的な情景ではなく、夕暮れの暮色に包まれた野辺で、仄かな光の中でぼんやりと見える花薄の穂波を静的に捉え、暮色の色彩によって秋の情趣を捉えた視点に新味があります。暮色が醸し出す秋独特の物寂しい情趣を捉えたところが、新古今時代の歌人に響いたように思われます。

また、『新古今和歌集』では「薄」を歌材とした入集状況も前時代より増え、「秋風」との組み合わせの他、一首のように秋の暮色、露との組み合わせにより、秋の物哀しい情趣を繊細に表現できる歌材として発展しました。

暮色の薄明の中、薄の白く光る穂がぼんやりと浮かび上がる様を想起させる一首を書で表しました。

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露白き夜

竹の葉に 露白きよの 月のいろに 物さむくなる 秋ぞ悲しき( 五首歌合:永福門院 )
Take no ha ni tuyu shiroki yo no tuki no iro ni mono samukunaru aki zo kanasiki
( Gosyu uta awase : eifukumonin )

風によって物悲しさをかき立てる秋。竹の葉に置く露に月の色も秋の心を受け、愁いを帯びた色となっていくと詠まれた一首。

王朝的なものが影をひそめていく中世。鎌倉末期~南北朝の混沌とした時代に一首を詠まれた永福門院は、『万葉集』を拠り所に京極為兼が興した「京極派」を代表する女流歌人の一人として、為兼の唱える心を本位とした真実の感動を詠みました。

真直ぐに伸び立つ竹稈(ちくかん)に細葉を密に茂らせ、その葉に置く白露の放つ輝きが、ひんやりとした秋風に微かに靡き、揺れ動く様や音を想起させ、閑寂な気配を伝えます。冴え冴えとした月の光に照られ、露に濡れた竹の葉に置く露を宵闇に包まれ、明暗を際立たせて詠むことにより、静寂な秋の気配が鮮明に浮かび上がります。秋の気配を露と月の光によって表現された門院の御歌は、自然と一体となって凝視され、寂しい秋が来たのだという哀愁が深く漂います。

秋到来を白を基調とした竹の葉に置く露の清らかさを月の光を透し、悲哀の情を詠まれた一首を書で表しました。

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稲葉そよぎて

昨日こそ 早苗(さなえ)とりしか いつのまに 稲葉そよぎて 秋風の吹く(古今和歌集:よみ人しらず)
Kinofu koso sanae torishika itu no ma ni inaba soyogite akikaze no fuku ( kokin Wakashū :yomihito shirazu )

田植えの頃、苗代から早苗を取って田に植えたのは、昨日のことのように思われる。いつの間にか稲葉を秋風が吹いていると詠まれた一首。一首は、『古今和歌集』秋歌上で立秋を題とした2首に続き、秋風を歌題として排列されています。

田植えが終わったばかりの時節は、まだ小さな苗が水を張った田を青々と瑞々しい光景を見せていたことが、昨日のことのように思われ、月日の経つ速さが伝わってきます。秋の気配を秋風により、実りの季節の秋色へと移ろいゆく様を想起させます。一首は、秋風が田園風景の色彩を青々とした瑞々しい風景から、黄金色に色づく稲穂をそよがせる風景へと移ろうことを予感させます。

初秋の田園風景を清々しく簡潔に詠まれた一首を書で表しました。

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葛の裏風

神なびの 御むろの 山の葛かづら うら吹きかへす 秋はきにけり(新古今和歌集:大伴家持)
Kami nabi no mimuro no yama no kuzu kadura ura fuki kahesu aki ha ki ni keri
( Shinkokinwakashū::Ōtomo  no Yakamochi)

神が鎮座する御室(みむろ)の山に生い茂る葛の原。その葛の原に葉を裏返して風が吹き、秋到来を告げているのだ、と詠まれた一首。和歌が衰退していた時代に和歌の復興を目指した『古今和歌集』成立から300年。心を託す自然との関わり方も古代の人との隔たりも広がった新古今時代。

「立秋」を詠んだ一首は、和歌の伝統を『万葉集』を拠り所に新たな境地を切り開き、編纂された『新古今和歌集』の秋歌の巻頭に万葉歌人、大伴家持(おおとも の やかもち)の歌として撰集されています。

家持の歌として『新古今和歌集』に撰集された一首は、平安中期に藤原公任(ふじわら の きんとう)により、柿本人麻呂(かきのもと の ひとまろ)から中務(なかつかさ)までの三十六歌仙の歌を撰出してまとめた「三十六人歌合」を、平安末期に藤原俊成(ふじわら の としなり)が三十六歌仙の歌、各3首を選び直した「俊成三十六人歌合」の中で、家持の歌として撰歌されています。

俊成は、撰者となった第7番目の勅撰和歌集『千載和歌集』を『古今和歌集』の正調へと導きました。古典復興の機運の中、俊成が家持の秀歌として一首を採り上げたことからも、万葉歌人の家持の歌として『新古今和歌集』の秋歌巻頭に撰集されたことが窺えます。

また、一首は『家持集(やかもちしゅう)』の秋歌巻頭に排列されています。『家持集』は平安後期、藤原公任の選出した三十六歌仙から、各歌人の家集を集めた『三十六人家集』が編まれ、そのひとつとして『家持集」が伝わっています。全てが、家持本人と認められる作ではなく、他の万葉歌人の歌、作者不明の歌などが混在していますが、家持を思わせる優美で繊細な歌風の歌が撰集されています。

『新古今和歌集』の拠り所となった万葉歌人の歌については、「新古今和歌集序」の仮名の序文「仮名序」から窺えます。『新古今和歌集』の「仮名序」については、以下の記事に書きました。
「あめつちひらけはじめて」https://washicraft.com/archives/9985

『古今和歌集』以来、勅撰和歌集の四季部の秋歌は、「立秋」を歌題とした歌から始まります。
『古今和歌集』から『千載和歌集』までの秋歌の巻頭に排列された歌は次の通りです。

秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかねぬる ( 古今和歌集:藤原敏行)
にはかにも 風の涼しく なりぬるか 秋立つ人は むべも言ひけり(後撰和歌集:よみ人しらず)
夏衣 またひとへなる うたたねに 心して吹け 秋のはつ風(拾遺和歌集:安法法師)
うちつけに たもと涼しく おぼゆるは 衣に秋は 来るなりけり (後拾遺和歌集:よみ人しらず)
とことはに 吹く夕暮れの 風なれど 秋立つ日こそ 涼しかりけれ(金葉和歌集:藤原公実)
山城の 鳥羽田の面(おも)を 見渡せば ほのかに今朝ぞ 秋風ぞ吹く(詞花和歌集:曾根好忠)
秋来ぬと 聞きつるからに 我が宿の 荻の葉風の 吹きかはるらん (千載和歌集:侍従乳母)

各勅撰和歌集の四季部の中で、最も歌数が多い秋歌の巻頭の歌題として受け継がれた「立秋」に寄せて詠まれた歌は、夏から秋へと移ろう季節の変化を風の音や肌に感じる体感など、感覚によって詠まれています。

『新古今和歌集』の秋歌の巻頭に排列された一首は、風によって秋到来を感じる初秋の情趣を”葛の裏風”を題材に詠まれたところに、『新古今和歌集』ならではの編纂意図が込められていると思われます。

草原の葛の葉が、風によって裏返り、葉裏の白を見せる光景を表した”葛の裏風”は、秋到来の風情を象徴する言葉として用いられ、多くの歌が詠まれてきました。家持の一首として撰集された歌は、「立秋」を風の便りによって鋭敏に感じ取り、表現された先駆的な歌として撰集されています。

また、『古今和歌集』恋歌には、一首の派生歌から次の一首が撰集されています。

秋風の 吹きうらがへす 葛の葉の うらみても猶 恨めしきかな( 古今和歌集 恋五:平貞文)

平安前期の歌人、平 貞文(たいら の さだふみ)の一首は秋風が吹き、白い葉裏をみせる葛の葉に寄せ、”裏見”に掛けて、葉裏を見ても恨み足りないと詠まれたものです。初秋の風物、葛の葉が秋風に吹かれる様に託し、葛の葉が風に翻り、葉裏の白を見せることから”裏見”は“恨み”と掛け、詠まれるようにもなりました。

また、”葛の裏風”という言葉を用いて詠まれるようにもなりました。”葛の裏風”を歌詞として詠み込まれた一例には、平安中期を代表する女流歌人の一人、赤染衛門(あかぞめえもん)が和泉式部(いずみしきぶ)に贈った一首が挙げられます。また、赤染衛門と和泉式部の贈答歌のやりとりは、『新古今和歌集』の雑歌下に撰集されています。

うつろはで しばし信太 (しのだ)の 森を見よ かへりもぞする 葛の裏風( 赤染衛門 )

心変わりしないで、信太の森を見守りなさい。葛の葉が風に翻るように、戻って来ることもあるのですと詠まれたものです。

秋かぜは すごくふくとも 葛葉のうらみがほには みえじとぞおもふ(和泉式部)

赤染衛門の返歌として和泉式部は、秋風が吹き、葛の葉が風に翻って葉裏を見せても、恨み顔はみせたくありませんと詠まれたものです。

『新古今和歌集』の秋歌巻頭に排列された一首は、私的な歌ではなく、自然への畏敬の念を込め、神の鎮座する神聖な山の風の気配を題材に観照しています。『古今和歌集』で秋到来をさりげなく詠まれた敏行の一首のように、鋭い感力によって秋の情感を感受し、なだらかに格調高く詠まれています。

「立秋」に寄せ、秋の気配を風に託して詠む、伝統的な”葛の裏風”の発想の魁として採り上げられた一首を書で表しました。

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葵草

むら雨の 風にぞなびく あふひ草 向かふ日かげは うすぐもりつつ(壬二集:藤原家隆)
Murasame no kaze nizo nabiku afuhi gusa mukafu hikage ha usugumori tutu
(Minishū:Fujiwara no Ietaka)

村雨を吹き寄せる風に靡く葵草。葵草の花が顔を向けている日の光は雲に覆われて行く、と詠まれた一首。一首を詠んだ藤原家隆(ふいわら の いえたか)は、新古今時代を代表する歌人です。

一首は、『老若五十首歌合』にて「夏」を歌題として詠まれたものです。

「葵草(あおいぐさ)」とは、「立葵(たちあおい)」の古名です。梅雨入りの頃から咲き始め、梅雨の季節の花として古来より親しまれてきました。古くは、「唐葵(からあふひ)」とも呼ばれました。『枕草子』第66段「草は」にて、「唐葵、日の影にしかたひて かたふくこそ、草木といふべくも あらぬ心なれ」と評しているとおり、天に向かって伸びやかに直立した草姿と夏の太陽の光に顔を向け、咲き続ける様が賛美されてきました。

家隆の一首は、雨風を受け、靡く立葵のしなやかな花びらに射していた日の光が弱まり、鮮やかな花色が翳っていく様に梅雨の時節を捉えています。

梅雨時の情趣をたおやかに詠まれた一首を書で表しました。

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扇面 未央柳

梅雨の時、雨露を受けて艶やかさが増す未央柳(びようやなぎ)。中国原産の未央柳の和名は、唐時代の詩人、白居易(はっきょい)の『長恨歌(ちょうごんか)』の一節、「未央柳(未央の柳)」に由来します。「未央柳(未央の柳)」とは、未央(びおう)宮殿の庭に植えられた柳をいいます。長編の『長恨歌』のなかで、「未央柳(未央の柳)」についての一節は、以下のとおりです。

帰来池園皆依旧 帰来れば池苑(ちえん)皆旧に依(よ)る
太液芙蓉未央柳 太液(たいえき)の芙蓉 未央(びおう)の柳
芙蓉如面柳如眉 芙蓉は面の如く 柳は眉の如し

白居易が、『長恨歌』のなかで楊貴妃の眉を「柳如眉(柳は眉の如し)」と未央宮に植えられた柳に喩えた名の通り、未央柳の細長い葉としなだれた枝、長く繊細な雄蕊の風情は、しだれ柳のようにたおやかで優美です。

個性豊かな梅雨時の花の情趣を和紙の繊維のしなやかさと強さによって表し、扇子にあしらいました。

”Hypericum chinense”

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楝(おうち)咲く

あふち咲く そともの木陰 露おちて さみだれはるゝ 風わたるなり(新古今和歌集:藤原忠良)
Afuchi saku sotomo no kokage tsuyu ochite samidare haruru kaze wataru nari
( Shinkokinwakashū:Fujiwara no tadayoshi)

楝(おうち)とは、栴檀(せんだん)の古名です。初夏、高く伸びた枝葉の基部に芳香のある薄紫の細やかな花を多数咲かせます。楝(おうち)の花が咲く戸外の木陰。そこに五月雨の雨露が落ち、雨上がりの風が樹木を渡っていくようだと詠まれた一首。一首を詠んだ藤原忠良(ふじわら の ただよし)は平安末期の後鳥羽院の歌壇で活躍した歌人の一人です。勅撰和歌集には、69首入集しています。

忠良の一首は、『新古今和歌集』夏歌で「五月雨」を歌題とした中に排列されています。

『枕草子』37段「木の花は」にて清少納言は、楝(おうち)の花について以下のように綴っています。

「木のさまにくげなれど、楝(おうち)の花、いとおかし。かれがれに、さまことに咲きて、かならず五月五日にあふも、おかし。」

楝(おうち)は、枝を広げた樹形は不格好ではあるが趣ある。枯れたようにみえながら、梅雨の長雨が降り続く陰暦の五月五日には薄紫の花を煙るように咲かせ、しっとりとした時節に相応しいと評しています。樹の梢を覆うように薫り高い薄紫の花を咲かせる栴檀(せんだん)は五月雨を受け、新緑の季節に清々しさを引き立てます。

忠良の一首は、栴檀(せんだん)の花に落ちた五月雨の雫の景色から、雨上がりの晴れ行く空に視点をを広げて渡る風を捉え、栴檀(せんだん)の甘美な香りが辺り一面に漂う光景を鮮やかに浮かび上がらせます。

鮮明な自然観照を瑞々しく詠まれた一首を書で表しました。

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