植物と文学:Plant in the literature」カテゴリーアーカイブ

散紅葉

秋の月 山べさやかに 照らせるは  おつるもみぢの かずをみよとか(古今和歌集:よみ人しらず)
Aki no tsuki yamabe sayakani teraseru ha otsuru momiji no kazu wo miyo to ka

秋は月。山の辺りを明るく月が照らしている。その明るさは、散っていく紅葉の数を数えられるほどであると詠まれた一首。『古今和歌集』秋歌下で「紅葉」を歌題とした中でも ” 散紅葉 ” をテーマとした、よみ人知らずの歌の一群に排列されています。

『古今和歌集』秋歌下では、紅葉の散り行く風情を詠んだ、よみ人知らずの歌が多く撰集されています。黄葉を愛でた万葉の時代から、平安の世に移り変わり、黄葉から艶やかな紅葉へと関心が移り、深山に入り、紅葉を愛でるようになったことが反映されていると思われます。

一首では、漆黒の夜に輝く月の光に照り返された紅葉は、澄んだ冷気によって鮮やかに色づいた一葉の形がくっきりと見えるかのようで、冴え渡る月の光の輝きは、冬へと移り行く季節を伝えます。色艶やかな紅葉の季節を月との取り合わせによって風雅な趣に詠まれた一首を書で表しました。

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清麗

白露の 色はひとつを いかにして 秋の木の葉を ちぢに染むらむ(古今和歌集:藤原敏行)
Shiratsuyu no iro ha hitostu wo ikani site aki no konoha wo chidini somu ramu
( kokin Wakashū : Fujiwara no Toshiyuki )

無色透明な白露。なぜ、秋の木の葉を多彩な色に染めあがるのであろう、と詠まれた一首。一首を詠んだ三十六歌仙一人、藤原敏行は平安前期に宇多天皇の宮廷歌人として活躍しました。

『古今和歌集』は、撰者となった紀貫之・紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑の入集歌数が多くを占める中、『古今和歌集』成立以前の作者別歌数を見ると、在原業平30首、敏行の歌は19首となっており、『万葉集』に入っていない歌を除いた古今以前の代表歌人として位置づけられます。『万葉集』の強い感動を真直ぐに素朴に詠んだ時代から、平安初期の漢詩文隆盛期を経て、和歌復興の機運が高まり、和歌は知的で優美な表現へと変革していく過程で詠まれた敏行の歌は、古今時代の軽快優美な傾向が表れています。

万葉時代、秋に色づく木々の葉は紅く色づく紅葉より、黄色に色づく黄葉が愛でられていました。『万葉集』には紅葉より、黄葉詠んだ歌が大多数を占めていました。『万葉集』をはじめ古来、露が降りると葉は色づくと捉えられていました。『古今和歌集』の時代も、凛とした冷気によって葉が色づき始める頃の情趣は、露と共に詠まれました。厳しい冬を前にした晩秋、冷たい露が木々の葉に降ることによって、葉を色づかせ、紅葉が進んでいくものと考えられていました。

敏行の一首は、そうした露によって紅葉が進むという思考を背景に、露の白一色と千々に色づく葉を数量的に対比させ、明快に緑の葉が多彩な色に変化する様を深く印象付けます。黄・橙・紅と様々に濃淡織り交ぜられ、艶やかな葉色に彩られる豊潤な山野を鮮明に伝えます。

理知的で鋭敏な感性によって、古今時代を先取りして詠まれた一首を書で表しました。

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籬の菊

霜をまつ 籬(まがき)の菊の よひの間に 置きまよふ色は 山の端の月(新古今和歌集:宮内卿)
Simo wo mastu magaki no kiku no yohi no ma ni oki mayofu iro jha yama noha no tsuki
( Shinkokinwakashū:Kunaikyou)

霜を待っている垣根の菊。宵の間に霜が置いたのかと見間違えるほど、月の光によって白く輝いて見えると詠まれた一首。一首は『新古今和歌集』秋歌下で、「雁」を詠んだ歌題に続き、「菊」を歌題とした一群に排列されています。一首を詠んだ宮内卿(くないきょう)は、式子内親王、俊成女と並び、新古今時代を代表する女性歌人の一人として知的な趣で巧緻な詞の続けがらに特徴ある歌を詠みました。

宮内卿の一首から、『古今和歌集』に撰集されている白菊の花を詠んだ次の一首が想起されます。

心あてに 折らばや折らむ 白菊の おきまどはせる 白菊の花 (古今和歌集:凡河内躬恒)

凡河内躬恒(おおしこうち の みつね)が詠んだ一首は、晩秋に初霜が降りて、白一色になった庭の白菊の美しさを詠んだものです。折るならば、あて推量で折ることになろうかと、白菊を霜と見分けがつかなくなったと機知に富む表現により、霜に打たれた白菊の美しさを讃えました。

宮内卿の一首には、次のような詞書があります。

五十首哥たてまつりし時、菊籬月と云ふ事

宮内卿は詞書にあるとおり、菊が咲く季節の情趣を詠みました。まだ、霜が置く季節ではない白菊を月の光が反映し、菊の白さを際立たせます。躬恒の一首では、露と白菊が紛れるのに対し、霜が降りる前の時節を月の光の神々しさによって表現したところに、宮内卿らしい理知的な歌風が表れています。宮内卿の一首は、季節が進んで霜が降りる頃、白菊は「紫」に花色が移ろうことを予感させます。

白菊に寄せ、季節の推移を精緻に詠まれた一首を書で表しました。

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色かはる露

色かはる 露をば袖に おきまよひ うらがれてゆく 野辺の秋かな(新古今和歌集:俊成女)
Iro kaharu tsuyu woba sode ni oki mayohi ura garete yuku nobe no aki kana
(Shinkokinwakashū:Toshinari no musume)

末枯れて行く秋景色に託し、深い哀しみを詠まれた一首。一首を詠んだ藤原俊成女(ふじわら の としなり の むすめ)は、新古今時代の代表歌人の一人です。藤原俊成の養女で実母が俊成の娘にあたり、俊成は実の祖父にあたります。

藤原俊成は、心と詞を一体とした歌の姿と歌から感じられる情趣の中に、余情・静寂美のあるものを幽玄として重んじました。俊成女の歌は、そうした俊成の余情・静寂美の表現を受け継ぎつつ、華やかで妖艶な世界を細やかに詠みました。また、俊成女のそうした特性は、『源氏物語』をはじめとした物語から摂取した本歌取りの歌に生かされています。

俊成女の一首は、後鳥羽院主催の「千五百番歌合」で詠まれたものです。『新古今和歌集』秋歌下で、同じく俊成女が「千五百番歌合」で『源氏物語』第二帖「帚木」(ははきぎ)の巻で常夏の女と呼ばれた夕顔が詠んだ「打払ふ 袖も露けき 床夏に 嵐吹きそふ 秋も来にけり」を本歌として詠まれた次の一首に続き、「露」を歌題とした一群に排列されています。

とふ人も 嵐吹きそふ 秋はきて 木の葉にうづむ やどの道芝(俊成女)

木枯らしが吹く秋が来て、家に通じる道も木の葉に埋もれ、訪ねる人もあるまいと詠まれたものです。

「色かはる」と露を詠まれた一首では、『源氏物語』 第46帖 「椎本(しいがもと)」にある一首を本歌とされたとしています。光源氏亡き後の物語、宇治十帖の「椎本(しいがもと)」では、薫が仏道に心を寄せる光源氏の異母弟、八宮に憧れて宇治の山荘を度々訪れる内、八宮から自分が亡くなった後、大君・中君の二人の姫の後見をして欲しいと薫に託します。八宮は山寺に籠り、程なくして寺からの使いで八宮の死が伝えられます。

俊成女の一首は、父の八宮を亡くして嘆く大君の歌が本歌とされています。大君の一首は、八宮から後見を託された宇治の姫君を案じ、訪れた薫が大君に寄せ、詠まれた歌の返歌となっています。

色変はる 浅茅を見ても 墨染に やつるる袖を 思ひこそやれ (薫)

色変はる 袖をば露の 宿りにて わが身ぞさらに 置き所なき(大君)

薫は、色が変わった浅茅をみるにつけ、喪服に身をやつしている姿をお察ししますと姫君を案じ、詠みました。薫の一首に対し大君は、喪服の色に変わった袖に涙の露を置いております。身の置き所がございません、と父の死を嘆き悲しみ、心細い思いを一首に託しました。

俊成女は、宇治十帖で展開される物語の世界より、大君の心情を託した自然の描写の情調に寄り添い、四季を詠む歌として抒情的な物語の世界を創作しました。俊成娘の一首では、『源氏物語』の大君が詠んだ本歌の「袖をば露の」の「袖」と「露」を入れ替え、「露をば袖に」と秋草に露が置いた景色が連想され、末枯れて行く野辺の景色として詠みました。

「色かはる露」は、女性の辛くやるせない恋情を表す紅色に染まる涙、「紅涙(こうるい)」を想起させます。秋草に置く透明で濁りのない露は、紅色の涙の露に置き変わってみえることで、末枯れた野辺の景色は深い哀しみがしみじみと滲み出て、心に響きます。

晩秋の情趣に寄せ、繊細で深みのある物語へと創作された一首を書で表しました。

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