植物と文学:Plant in the literature」カテゴリーアーカイブ

梅花

わが園に 梅の花散る ひさかたの あめより雪の 流れくるかも (万葉集:大伴旅人)
Waga sono ni ume no hana chiru hisakata no ame yori yuki no nagare kuru kamo
(Manyoushū:Ōtomo no tabito)

庭の白梅の花びらがしきりと散っている。あれは、花びらではなく、天空から雪が舞い降りてきているのだろうか、と詠まれた一首。

一首は万葉の代表歌人の一人、大伴旅人(おおとも の たびと)が、大宰府の長官であった折、自らの館で主催した観梅の宴で詠まれたものです。白梅を雪に見立てた一首は、白梅の清らかさと共に、観梅の宴の雅な風情が伝わってきます。中国より渡来した早春の季を知らせる白梅は、万葉の時代人々に愛され、白梅賛美の歌が数多に詠まれました。

清雅な白梅の佇まいに寄せて詠まれた一首を書で表しました。

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雪降れば

雪降れば 冬ごもりせる 草も木も 春に知られぬ 花ぞ咲きける (古今和歌集:紀貫之)
Yuki fureba fuyu gomori seru kusa mo ki mo haru ni sirarenu ha zo saki keru (kokin Wakashū:Kino Tsurayuki)

草木の積もった雪を「春にしられぬ花」に見立てた一首。古今時代を代表する歌人の一人、紀貫之が桜の落花を雪に見立てた発想と対をなす形で雪を冬に咲く花に見立てました。白雪を頂いた草木は、厳しい冬を超えて咲く花の生命感と気高さを伝えます。

桜の花に劣らぬ白雪に包まれた冬の草木の美しさを詠まれた一首を書で表しました。

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山橘

この雪の 消(け)残る時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む(万葉集:大伴家持)
Kono yuki no kenokoru toki ni iza yukana yamatahcibana no mi no teru mo mimu
( Manyoushū:Ōtomo no yakamochi )

雪が消えないうちに、山橘(やまたちばな)の実が雪に映える景色を見に行こう。『万葉集』の代表歌人の一人、大伴家持が山に自生する山橘を詠んだ一首。山橘とは、藪柑子(やぶこうじ)の別名のひとつです。山橘という名で『古今和歌集』、『枕草子』などにも登場するとおり、古来より親しまれてきた植物です。実の熟する冬期、雪化粧した常緑の葉の下に赤々とした実が鮮やかに映え、清々しい生命感を伝えます。

寒気の中、常緑の艶やかな葉を保ち、紅い実を輝かせる藪柑子に寄せた一首を書で表しました。

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時わかぬ

時わかぬ 波さへ色に いづみ川 はゝその森に 嵐ふくらし(新古今和歌集:藤原定家)
Toki wakanu nami sahe iro ni idumikaha hahaso no mori ni arashi fuku rashi
(Shinkokin Wakashū : Fujiwara no Sadaie)

季節によって色が移ろうことのないはずの川。川の上流にある柞(ははそ)の森に嵐が吹いたのだろうか。その川の波が吹き散った木々の葉色が映り、秋が顕れていると詠まれた一首。「柞(ははそ)」とは、ドングリを実らせながら黄葉するコナラやクヌギなどの落葉高木を総称する古語です。柞の森では、黄・茶・赤褐色など濃淡さまざまに色づいたコナラやクヌギが、豊穣の森の生命感を伝えます。

『新古今和歌集』秋歌下で紅葉を歌題とした一群に排列された藤原定家(ふじわらのさだいえ)の一首は、紅く色づく紅葉ではなく、黄葉を詠まれた視点が清新です。定家の一首は、『古今和歌集』秋歌下に排列されている六歌仙の一人、文屋康秀(ふんやのやすひで)が詠んだ次の一首を本歌としています。

草も木も いろはかはれど わたつうみの 浪の花にぞ 秋なかりける  

文屋康秀の一首では、海の白波を花に譬え、秋になっても草木のように色は変わることはないと詠んでいます。定家は本歌の色が変わるはずのない海に立つ白波に対し、川に立つ波として展開し、変わるはずのない波の色が秋色に感じられると詠みました。

川の上流にある森の木々が、渾然一体となって晩秋の輝きを放つ様を思い起こす一首を書で表しました。

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