植物と文学:Plant in the literature」カテゴリーアーカイブ

春立つ風

袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ(古今和歌集:紀貫之)
Sode hichite musubishi mizu on kohoreru wo hautatu kefuno kaze ya toku ramu
( kokin Wakashū :Ki no Tsurayuki )

夏に袖が濡れて掬った水が春になり、冬の間凍った水を東風が融かしてくれるだろうか、と立春を迎えた悦びを詠まれた一首。古今時代を代表する貫之の一首の詞書に「春たちける日よめる」とあるとおり、『古今和歌集』春歌上の立春から始まる第2番目に排列されています。

『古今和歌集』は中国詩の影響が色濃く表れています。紀貫之が詠んだ一首もまた、『礼記(らいき)』にみられる「孟春(もうしゅん)ノ月(つき)、東風氷ヲ解ク」にあるとおり、東風が氷を解かして春の訪れを告げるとした思考を背景として詠まれたことが窺えます。

貫之は、まだ冷気の残る中、氷が解けて山には霞がたなびき、草木が芽吹く春に立ち返る悦びを、清らかな水に託しました。春の訪れをみやびやかに詠まれた一首を書で表しました。

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霜露

冬がれの 森のくち葉の 霜のうへに おちたる月の 影のさむけさ(新古今和歌集:藤原清輔)
Fuyu gare no mori no kuchiba no shimo no uhe ni ochitaru tuki nokage no samukesa
( Shinkokinwakashū:Fujiwara no kiyosuke)

冬枯れした森の朽ち葉の上に置く霜。その上に月光が寒々と照らしていると詠まれた一首。平安末期の代表歌人のひとり、藤原清輔(ふじわら の きよすけ)の一首は隈なく照らす月光によって、白一色の世界を際立たせ、森の静寂さを伝えます。

冬の月が多く詠まれるようになった背景のひとつに『源氏物語』第20帖「朝顔」で源氏が紫の上と共に庭前の雪景色を見て語られた、源氏の言葉の一節が想起されます。

時々につけても、人の心をうつすめる花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に雪の光あひたる空こそ、あやしう色なきものの、身にしみて、この世のほかのことまで思ひ流され、おもしろさもあはれさも残らぬおりなれ。

四季折々、世間の人々が心惹かれる花や紅葉の頃より、冬の夜の澄み切った月の光に雪の照り映える空こそ、色のない景色であるが、身に深く沁みて、おのずと来世のことまで想像されて、見た目の美しさとしみじみとした情感もこれ以上のものはないと感じられる。

と、月光に照らされた白一色の世界に重ね、心象風景を表しました。

さらに、御簾を上げさせて見渡した庭の風景の描写について、

月の隈なくさし出でて、一つ色に見え渡されたるに

と、凍てつく冬の月光が地上を隈なく明るく照らし、白一色の夢幻の風景を浮かび上がらせると表しています。

『古今和歌集』をはじめ、秋の主要な歌題として詠まれていた「月」。冬歌として「冬の月」が初出となったのは、『源氏物語』が書かれた時代に撰定された『拾遺和歌集』冬歌にある恵慶(えぎょう)法師の次の1首です。

天の原 空さへさえや わたるらむ 氷と見ゆる 冬の夜の月 (拾遺和歌集:恵慶法師)

恵慶法師は、天空を平原に見立て、冬の月光は、空を一面氷に覆われたように冴え冴えとみせると詠まれたものです。

その後、『後拾遺和歌集』1首、『金葉和歌集』1首がみられますが、冬の月が『源氏物語』に触発され、勅撰和歌集で多く採り上げられる兆しがはっきり表れたのは、『千載和歌集』に4首みられる頃です。清輔の一首が撰集された『新古今和歌集』になると、21首撰集されており、それ以前の勅撰和歌集にみられない冬歌の主要な歌題となっています。「冬の月」は新古今以降、冬歌の歌題として定着していきます。

多彩で艶やかに彩られるに季節にはみられない、冬ならではの清浄で無彩色の世界。冬の月の濁りのない清らかな情趣が千載~新古今時代、着目されたと思われます。清輔の一首は、朽ち果てた葉が白一色で覆われ、冬の月の凍てつくような神々しい光に浄められた情趣を詠みました。凛として清浄な冬の空気感を詠まれた一首を書で表しました。

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散紅葉

秋の月 山べさやかに 照らせるは  おつるもみぢの かずをみよとか(古今和歌集:よみ人しらず)
Aki no tsuki yamabe sayakani teraseru ha otsuru momiji no kazu wo miyo to ka

秋は月。山の辺りを明るく月が照らしている。その明るさは、散っていく紅葉の数を数えられるほどであると詠まれた一首。『古今和歌集』秋歌下で「紅葉」を歌題とした中でも ” 散紅葉 ” をテーマとした、よみ人知らずの歌の一群に排列されています。

『古今和歌集』秋歌下では、紅葉の散り行く風情を詠んだ、よみ人知らずの歌が多く撰集されています。黄葉を愛でた万葉の時代から、平安の世に移り変わり、黄葉から艶やかな紅葉へと関心が移り、深山に入り、紅葉を愛でるようになったことが反映されていると思われます。

一首では、漆黒の夜に輝く月の光に照り返された紅葉は、澄んだ冷気によって鮮やかに色づいた一葉の形がくっきりと見えるかのようで、冴え渡る月の光の輝きは、冬へと移り行く季節を伝えます。色艶やかな紅葉の季節を月との取り合わせによって風雅な趣に詠まれた一首を書で表しました。

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清麗

白露の 色はひとつを いかにして 秋の木の葉を ちぢに染むらむ(古今和歌集:藤原敏行)
Shiratsuyu no iro ha hitostu wo ikani site aki no konoha wo chidini somu ramu
( kokin Wakashū : Fujiwara no Toshiyuki )

無色透明な白露。なぜ、秋の木の葉を多彩な色に染めあがるのであろう、と詠まれた一首。一首を詠んだ三十六歌仙一人、藤原敏行は平安前期に宇多天皇の宮廷歌人として活躍しました。

『古今和歌集』は、撰者となった紀貫之・紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑の入集歌数が多くを占める中、『古今和歌集』成立以前の作者別歌数を見ると、在原業平30首、敏行の歌は19首となっており、『万葉集』に入っていない歌を除いた古今以前の代表歌人として位置づけられます。『万葉集』の強い感動を真直ぐに素朴に詠んだ時代から、平安初期の漢詩文隆盛期を経て、和歌復興の機運が高まり、和歌は知的で優美な表現へと変革していく過程で詠まれた敏行の歌は、古今時代の軽快優美な傾向が表れています。

万葉時代、秋に色づく木々の葉は紅く色づく紅葉より、黄色に色づく黄葉が愛でられていました。『万葉集』には紅葉より、黄葉詠んだ歌が大多数を占めていました。『万葉集』をはじめ古来、露が降りると葉は色づくと捉えられていました。『古今和歌集』の時代も、凛とした冷気によって葉が色づき始める頃の情趣は、露と共に詠まれました。厳しい冬を前にした晩秋、冷たい露が木々の葉に降ることによって、葉を色づかせ、紅葉が進んでいくものと考えられていました。

敏行の一首は、そうした露によって紅葉が進むという思考を背景に、露の白一色と千々に色づく葉を数量的に対比させ、明快に緑の葉が多彩な色に変化する様を深く印象付けます。黄・橙・紅と様々に濃淡織り交ぜられ、艶やかな葉色に彩られる豊潤な山野を鮮明に伝えます。

理知的で鋭敏な感性によって、古今時代を先取りして詠まれた一首を書で表しました。

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籬の菊

霜をまつ 籬(まがき)の菊の よひの間に 置きまよふ色は 山の端の月(新古今和歌集:宮内卿)
Simo wo mastu magaki no kiku no yohi no ma ni oki mayofu iro jha yama noha no tsuki
( Shinkokinwakashū:Kunaikyou)

霜を待っている垣根の菊。宵の間に霜が置いたのかと見間違えるほど、月の光によって白く輝いて見えると詠まれた一首。一首は『新古今和歌集』秋歌下で、「雁」を詠んだ歌題に続き、「菊」を歌題とした一群に排列されています。一首を詠んだ宮内卿(くないきょう)は、式子内親王、俊成女と並び、新古今時代を代表する女性歌人の一人として知的な趣で巧緻な詞の続けがらに特徴ある歌を詠みました。

宮内卿の一首から、『古今和歌集』に撰集されている白菊の花を詠んだ次の一首が想起されます。

心あてに 折らばや折らむ 白菊の おきまどはせる 白菊の花 (古今和歌集:凡河内躬恒)

凡河内躬恒(おおしこうち の みつね)が詠んだ一首は、晩秋に初霜が降りて、白一色になった庭の白菊の美しさを詠んだものです。折るならば、あて推量で折ることになろうかと、白菊を霜と見分けがつかなくなったと機知に富む表現により、霜に打たれた白菊の美しさを讃えました。

宮内卿の一首には、次のような詞書があります。

五十首哥たてまつりし時、菊籬月と云ふ事

宮内卿は詞書にあるとおり、菊が咲く季節の情趣を詠みました。まだ、霜が置く季節ではない白菊を月の光が反映し、菊の白さを際立たせます。躬恒の一首では、露と白菊が紛れるのに対し、霜が降りる前の時節を月の光の神々しさによって表現したところに、宮内卿らしい理知的な歌風が表れています。宮内卿の一首は、季節が進んで霜が降りる頃、白菊は「紫」に花色が移ろうことを予感させます。

白菊に寄せ、季節の推移を精緻に詠まれた一首を書で表しました。

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色かはる露

色かはる 露をば袖に おきまよひ うらがれてゆく 野辺の秋かな(新古今和歌集:俊成女)
Iro kaharu tsuyu woba sode ni oki mayohi ura garete yuku nobe no aki kana
(Shinkokinwakashū:Toshinari no musume)

末枯れて行く秋景色に託し、深い哀しみを詠まれた一首。一首を詠んだ藤原俊成女(ふじわら の としなり の むすめ)は、新古今時代の代表歌人の一人です。藤原俊成の養女で実母が俊成の娘にあたり、俊成は実の祖父にあたります。

藤原俊成は、心と詞を一体とした歌の姿と歌から感じられる情趣の中に、余情・静寂美のあるものを幽玄として重んじました。俊成女の歌は、そうした俊成の余情・静寂美の表現を受け継ぎつつ、華やかで妖艶な世界を細やかに詠みました。また、俊成女のそうした特性は、『源氏物語』をはじめとした物語から摂取した本歌取りの歌に生かされています。

俊成女の一首は、後鳥羽院主催の「千五百番歌合」で詠まれたものです。『新古今和歌集』秋歌下で、同じく俊成女が「千五百番歌合」で『源氏物語』第二帖「帚木」(ははきぎ)の巻で常夏の女と呼ばれた夕顔が詠んだ「打払ふ 袖も露けき 床夏に 嵐吹きそふ 秋も来にけり」を本歌として詠まれた次の一首に続き、「露」を歌題とした一群に排列されています。

とふ人も 嵐吹きそふ 秋はきて 木の葉にうづむ やどの道芝(俊成女)

木枯らしが吹く秋が来て、家に通じる道も木の葉に埋もれ、訪ねる人もあるまいと詠まれたものです。

「色かはる」と露を詠まれた一首では、『源氏物語』 第46帖 「椎本(しいがもと)」にある一首を本歌とされたとしています。光源氏亡き後の物語、宇治十帖の「椎本(しいがもと)」では、薫が仏道に心を寄せる光源氏の異母弟、八宮に憧れて宇治の山荘を度々訪れる内、八宮から自分が亡くなった後、大君・中君の二人の姫の後見をして欲しいと薫に託します。八宮は山寺に籠り、程なくして寺からの使いで八宮の死が伝えられます。

俊成女の一首は、父の八宮を亡くして嘆く大君の歌が本歌とされています。大君の一首は、八宮から後見を託された宇治の姫君を案じ、訪れた薫が大君に寄せ、詠まれた歌の返歌となっています。

色変はる 浅茅を見ても 墨染に やつるる袖を 思ひこそやれ (薫)

色変はる 袖をば露の 宿りにて わが身ぞさらに 置き所なき(大君)

薫は、色が変わった浅茅をみるにつけ、喪服に身をやつしている姿をお察ししますと姫君を案じ、詠みました。薫の一首に対し大君は、喪服の色に変わった袖に涙の露を置いております。身の置き所がございません、と父の死を嘆き悲しみ、心細い思いを一首に託しました。

俊成女は、宇治十帖で展開される物語の世界より、大君の心情を託した自然の描写の情調に寄り添い、四季を詠む歌として抒情的な物語の世界を創作しました。俊成娘の一首では、『源氏物語』の大君が詠んだ本歌の「袖をば露の」の「袖」と「露」を入れ替え、「露をば袖に」と秋草に露が置いた景色が連想され、末枯れて行く野辺の景色として詠みました。

「色かはる露」は、女性の辛くやるせない恋情を表す紅色に染まる涙、「紅涙(こうるい)」を想起させます。秋草に置く透明で濁りのない露は、紅色の涙の露に置き変わってみえることで、末枯れた野辺の景色は深い哀しみがしみじみと滲み出て、心に響きます。

晩秋の情趣に寄せ、繊細で深みのある物語へと創作された一首を書で表しました。

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韓藍

わが屋戸(やど)に 韓藍(からあゐ)植ゑおほし 枯れぬれど 懲りずて またも 蒔(ま)かむ
とぞ思ふ (万葉集:山部赤人)
Waga yado ni karaai ue ohoshi kare nuredo korizu te matamo makamu toso omofu
(Manyoushū : Yamabe no Akahito)

我が家の庭に植えていた韓藍(からあい)が枯れてしまったが、また諦めずに種を播き、育ててみようと詠まれた一首。韓藍(からあい)とは、艶やかな花を咲かせる秋草の一種、鶏頭の古名です。赤人の詠まれた歌の他、『万葉集』には数首、鶏頭を「韓藍」として詠まれた歌が見られます。

インド原産の鶏頭は、韓の国から伝わった藍(あい)ということから、韓藍(からあい)と呼ばれていました。鶏頭は、奈良時代には既に渡来しており、染料としても尊ばれていました。赤人の一首から、庭に植えた鶏頭を慈しみ、大切に育てられていたことが窺えます。また、鶏頭は鶏の鶏冠(とさか)に似た形状から、鶏冠草と書いて”からあい”と読まれました。

『万葉集』に詠まれた鶏頭は、紅色の豊かな質感と花色の艶やかさから、女性に譬えられることが多く、赤人の一首もまた、鶏頭に託して一度諦めた恋の炎をもう一度、燃やしてみようという思いを込め、詠まれています。

たおやかで繊細な花が多くみられる秋草の中でも、力強く生命力を感じさせる鶏頭は、花に託して喜び、苦しみ、哀しみを歌に詠んだ万葉時代の人々の生き生きとした姿を鮮やかに伝えます。燃える炎のような花の姿に託し、詠まれた一首を書で表しました。

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秋の初風

玉にぬく 露はこぼれて 武蔵野の 草の葉むすぶ 秋の初風(新勅撰和歌集:西行)
Tama ni nuku tsuyu ha koborete musashino no kusanoha musubu aki no hatsu kaze
(Shinchokusen Wakashū : Saigyou)

武蔵野の草原に吹く風の気配に寄せ、秋到来を詠まれた一首。西行の一首は、『新古今和歌集』に次ぐ、藤原定家が撰者となった第9番目の勅撰和歌集、『新勅撰和歌集』の秋歌上で「立秋」を歌題とした一群に排列されています。

『万葉集』の東歌で武蔵野を詠まれた歌が収められてより、武蔵野は平安時代に『伊勢物語』や『古今和歌集』などの物語や和歌で採り上げられ、それらの歌物語により武蔵野のイメージは受け継がれていきました。秋歌に撰集された西行の一首は、武蔵野を背景として和歌に詠み継がれてきた伝統を後世に伝えたいという定家の思いが表れているように思います。

武蔵野の広い草原に生い茂る草の葉に白玉を貫いたように並ぶ露の玉。そこに風が吹き寄せ、草の葉に置いた露はこぼれ落ち、整然としていた葉は風に結ばれたように乱れます。「露」の縁語である「むすぶ」という詞により、広大な原野のひとこまを切り取り、秋の初風によって草の葉と露の玉の2つの動きを対照的に捉え、初秋の風趣を伝えています。

武蔵野の原野を背景に初秋を趣深く詠まれた一首を書で表しました。

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誰が秋に

誰が秋に あらぬものゆゑ 女郎花 なぞ色に出でて まだきうつろふ(古今和歌集:紀貫之)
Taga aki ni aranu mono yue ominaheshi nazo iro ni idete mada ki utsurofu
(kokin Wakashū:Ki no Tsurayuki)

秋は誰にも訪れるというのに、なぜオミナエシの花だけが衰えてみえるのだろうかと詠まれた一首。『古今和歌集』の秋部に配列されている歌の詞書には、「朱雀院の女郎花合(をみなへしあはせ)にてよみたてまつりける」とあります。

「女郎花合(をみなへしあはせ)」とは、オミナエシの花に和歌を添え、花の美しさと歌の優劣を競い合った歌合(うたあわせ)で、898年に宇多上皇が主催しました。優雅な趣向を凝らせた歌合には貫之をはじめ、壬生忠岑(みぶ の ただみね)、凡河内躬恒(おおしこうち の みつね)、藤原興風(ふじわら の おきかぜ)、源宗于(みなもと の むねゆき)、伊勢(いせ)など古今時代を代表する歌人が集いました。

オミナエシは『万葉集』に詠まれているとおり、花の名の女郎(をみな)に若い女性、高貴な女性、佳人の意味が込められてきました。オミナエシを女性に見立てたイメージは、秋を詠む主要な題材として受け継がれていきました。

貫之の一首は、晩夏に咲き始めたオミナエシの色鮮やかな花が秋になり、衰えをみせたことに寄せ、恋人に飽きられた女性のイメージを重ねました。秋の訪れを告げるオミナエシは、秋草の中でも草丈があり、遠目からも鮮やかな黄色い小花が浮き立ってみえます。秋の野で儚げに秋風に揺れる様は、たおやかで優美な女性の姿を想わせます。

雅な歌合に寄せ、初秋の情趣を詠まれた一首を書で表しました。

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夏の夕風

日のかげは 竹より西に へだたりて 夕風すずし 庭の草むら(風雅和歌集:祝子内親王)
Hi no kage ha take yori nishi ni hedatari te yuukaze suzushi niha no kusa mura
(Fuugawakashū:Noriko naishinnou)

夏の夕暮れ。庭には心地よい涼風か吹き抜ける、安らかな時を詠まれた一首。一首を詠んだ花園天皇の皇女、祝子内親王は南北朝時代に活躍した京極派を代表する歌人の一人です。

京極派は、藤原定家の嫡子、為家の3人の子が二条・冷泉・京極の三家に分かれたうち、京極家を興した為兼により、歌壇の中心となった二条家の詞や詞のつづけがらを重んじ、題詠による歌を中心とした二条派に対し、自然と人生を区別し、実感に即して物事を多角的に捉えた、これまでの歌とは異なる歌境を提唱しました。

第17番目の勅撰和歌集『風雅和歌集』の夏部では、”涼しさ”を基調とした歌が好まれています。「納涼」という歌題は、『詞花和歌集』、それに続く『千載和歌集』『新古今和歌集』をはじめ、それ以降も夏歌の歌題として定着しているものの、撰集されている歌数は、数首みられる程度です。それに対し、京極派の勅撰和歌集では、『玉葉和歌集』19首・『風雅和歌集』12首と他集と比べ、夏歌に占める歌数が突出しており、京極派の歌人が好んだ題材であることが窺えます。

「納涼」は、木陰・水・月・風・川・草・雲・蜩などの自然によって体感する”涼しさ”を詠む題材です。夏の季節を五感で感じる感覚的な題材である「納涼」は、京極派独特の自然を動的に捉え、自然観照の中に自己の内面を投影できる歌題といえます。また、祝子内親王の一首は、「納涼」をテーマとしたなかでも、夏の夕景を詠んだ一群に排列されています。夏の情調として晩夏の夕暮れは、風によって秋の気配をそれとなく伝えます。

また一首は、”竹” が詠み込まているところにも、閑寂な風趣を愛する京極派の特色が表れています。夏の景として、庭の添景である青々と繁る ”竹” を詠み込むことで、清々しい緑の枝葉は西日を遮り、さらさらと葉音を奏で、風にそよぐ葉の醸し出す風情により清閑さが高まり、夕風の心地よさを引き立てます。さらに庭の草葉は、たおやかに風に靡き、閑寂な夏の夕景を浮かび上がらせます。

鋭敏に五感を研ぎ澄ませ、実景に基づき暁夏の夕暮れを清新な趣で詠まれた一首を書で表しました。

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