古来より歌に詠み継がれてきた「すみれ」。『万葉集』で山部赤人(やまべのあかひと)が、
春の野にすみれ摘みにと来しわれそ 野をなつかしみ一夜寝にける
と詠まれたように「すみれ」の花は、春の野を想い起こす景物として人の心を捉えてきました。
平安時代、春の景物を伝える歌題として「菫菜(すみれ)」は受け継がれました。
平安時代に編まれた勅撰和歌集の春歌の歌題では、末期に藤原俊成(ふじわらのとしなり)が撰者となり編纂された『千載和歌集』に3首みられます。俊成は当代歌人を重視し、俊成と同じ時代を生きた人々の想いを隈なく和歌集に掬い上げました。『古今和歌集』から『千載和歌集』に至るまで、「すみれ」を春の景物として注目したところに他集にはない独自性があります。
『千載和歌集』が編纂されたのは、源平の戦の時代にあたります。
そうした時代背景にあって俊成は、春歌下の巻に以下の「すみれ」を歌題としたことが明記された3首を撰集しました。
こよひ寝て摘みてかへらむすみれ草 小野の芝生は露しけくとも 源国信(みなもとのくにざね)
雉(きぎす)鳴く岩田の小野のつぼすみれ しめさすばかり成りにけるかな 藤原顕季(ふじわらのあきすえ)
道とほみいる野の原のつぼすみれ 春のかたみにつみてかへらん 源顕国 (みなもとのあきくに)
3首の歌は、白河天皇が堀河天皇に譲位して始まる院政時代のものです。
国信と顕季の歌は、『千載和歌集』の詞書に「百首のとき、すみれを詠める」とあり、長治2年(1105年)に堀河天皇に奉献されたとされる、「堀河百首」(堀河院御時百首和歌)にて詠まれたものと記されています。
顕国の詠んだ歌の詞書には、「嘉承二年きさいのみやの歌合に、すみれをよめる」と記されています。嘉承二年(1107年)は、父にあたる堀河天皇の崩御によって鳥羽天皇が5歳で即位をした年にあたります。
白河院の院政が始まった時代に生きた歌人による「すみれ」3首は、まず国信の赤人の歌を想起させる趣向から始まります。国信は、堀河天皇の近臣で歌壇の中心の一人として活躍しました。俊成は、国信の着目に敬意をもって筆頭に据えたことと思います。俊成自身も「すみれ」を歌題としたものを詠んでいますが、『千載和歌集』春歌での「すみれ」は、赤人の歌を拠り所とした春の野の懐かしさが基調となっています。
俊成が撰んだ「すみれ」3首からは、院政の始まりが契機となった戦乱で荒廃した都の現状を目にして、万葉の古歌を慕いつつ、かつて都が栄華を極めた時代を偲び、都の栄華が失われても和歌の伝統は絶えることなく生き生きとして受け継がれていくという俊成の想いを感じます。
画像は「すみれ」の咲く春の野を「つくし」と取り合わせて表したものです。
” Viola ”