雅と歌合

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歌合(うたあわせ)とは、歌人を左右二組にわけ、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争うものです。王朝の「雅(みやび)」を説明する上で、和歌とひらがなが互いに洗練されていく鍵として欠かせないものが歌合です。

王朝の雅の成立には、はじめての勅撰和歌集『古今和歌集』の編纂が背景にありました。『古今和歌集』撰集前夜、宮廷文学は嵯峨天皇・淳和天皇時代からの流れを受け継ぎ、漢詩文が第一に置かれていましたが、和歌復興の気運は徐々に高まりつつありました。
宇多天皇の御世のことです。宇多天皇は、菅原道真を重用し、中国文学にはない「惜秋(せきしゅう)」や「残菊(ざんぎく)」など日本独自の季節感・感性を漢詩に取り入れました。後に「惜秋」や「残菊」は和歌の題としても採用されていきます。「惜秋」や「残菊」は ”名残”を詠んだものです。過ぎ去ったあとの気配に心を寄せる ”名残”は、日本独特の感性として磨かれていきました。

その一方で宇多天皇は、和歌の文芸性を理解し、歌合(うたあわせ)を行い、『古今集』撰定への土台を築きました。『古今集』には漢文と仮名と2つの序文があることは、この時代の宮廷文学の方向性を示しており、漢詩文と和歌の調和を意図しているように思われます。『古今集』は、宇多天皇の皇子、醍醐天皇の勅命を受けて成立しました。

宇多天皇は、漢詩文で創り上げた「惜秋」や「残菊」など、日本独自の感性を歌合によって和歌に応用し、広めていきました。歌合は、単に歌の優劣を競うばかりでなく、装束、音楽、歌の景色を表した工芸品などの趣向を凝らすことで宮廷文化を洗練させていきました。和歌と和歌を書くためのひらがなによる文字表現の洗練は、それを書写する紙の製法技術、デザインの洗練へとつながりました。

画像は、宇多天皇が譲位されて法皇となった頃、催された「亭子院歌合(ていじのいんのうたあわせ)」(913年)より紀貫之と凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)が優劣を競ったものを書で表したものです。
左勝 貫之
さくらちるこのしたかぜはさむからで そらにしられぬゆきぞふりける
右 躬恒
わがこころはるのやまべにあくがれて ながながしひをけふもくらしつ
優劣の判定と批評は宇多法皇がされました。結果は左の貫之の勝ちです。引き分けになることもあり、持(じ)といいました。

歌合は、貫之の目指すところを実践する場でもありました。後世、歌合で詠まれた数々の優れた歌が勅撰和歌集に選ばれました。この流れは新古今集へとつながり、幽玄・余情といった理論が現われる背景となっていきます。

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