桐の葉もふみわけがたくなりにけり かならず人を待つとなけれど(新古今和歌集:式子内親王)
Kiri no ha mo fumiwake gataku nari ni keri kanarazu hito wo matsu to nakere do (Shinkokin Wakashū:syokushi naishinnou)
桐の落葉が深く積もり、庭の道も踏み分け難くなってしまいました。人が訪ねて来るのを待っている訳ではないけれども、と秋の情感を詠まれた一首。
『新古今和歌集』秋歌下で紅葉を歌題として落葉を詠んだ一群に排列されています。桐の落葉を詠まれたところに先例のない清新さがあり、桐の持つ崇高なイメージが伝わってきます。
この一首は、中国の唐時代の詩人、白居易(はっきょい)による詩文集『白氏文集』卷十三、「晩秋閑居」より発想を得たとされています。
地僻門深少送迎 地は僻(かたよ)り 門深く送迎少(まれ)に
披衣閑坐養幽情 衣を披(はお)り 閑坐し幽情を養ふ
秋庭不掃攜藤杖 秋庭掃(はら)はず 藤杖を携(たづさ)へ
閑蹋悟桐黄葉行 閑(しづか)に悟桐(ごとう)の 黄葉を踏んで行(あり)く
また、『古今和歌集』の遍照(へんじょう)の次の歌を本歌としています。
わが宿は道もなきまで荒れにけり つれなき人を待つとせしまに
式子内親王の一首は、それらの詩歌を消化して、内親王らしい細やかでしっとりとした情感を込め、晩秋閑居の心を詠んでいます。
落葉樹の中でも格別大きな葉を持つ桐。その一葉がはらりと微かに音を立てて落ち、踏み分けがたくなるほどになるほど積もることで長い時間経過を伝え、”あはれ”を誘います。小さな葉を密生させる楓や銀杏の落葉とは異なる、一葉の重み、かさかさとした音が伝わってきます。
「誰かを待っている訳ではないけれども・・・」と表現した下の句には、晩秋の侘しさに寄せて、世俗を離れて心静かな世界にあっても人恋しさが自然と滲み出ています。高雅な気品の中に温かさを感じる一首を書で表しました。