植物と文学:Plant in the literature」カテゴリーアーカイブ

薄く濃き

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うすくこき野べのみどりの若草に 跡までみゆる雪のむら消え(新古今和歌集:宮内卿)
Usuku koki nobe no midori no wakakusa ni ato made miyuru yuki no mura kie
(Shinkokin Wakashū:kunaikyou)

早春、野辺の若草の緑をあるところは薄く、あるところは色濃く感じた心を雪がまだらに消えた形跡として表現した一首。

宮内卿(くないきょう)は、後鳥羽院(ごとばのいん)に若くして才能を見出された新古今時代を代表する女流歌人です。鎌倉時代の初め、建任元年(1201年)の後鳥羽院が主催された和歌文学史上最大の規模の歌合、『千五百番歌合』に奉った一首です。『千五百番歌合』は、時代を代表する藤原定家(ふじわらのさだいえ)、藤原家隆(ふじわらのいえたか)、寂蓮(じゃくれん)、藤原俊成女 (ふじわらのとしなりのむすめ:俊成卿女)など30人の歌人が後鳥羽院の命を受けてそれぞれ100首を奉りました。そのなかの一人として、10代の若さで選ばれて後鳥羽院に激励を受けて『千五百番歌合』に参加し、好評を得た一首です。
野辺一面に広がる若草を緑一色ではなく、早く萌え出たものは色が濃く草丈も高く、遅く芽吹いたものは色も薄く草丈も低く差があるところを”うすくこき”という詞で伸びやかに表現されたところが新鮮です。若草の色の差異によって前の季節の名残を伝えているところも創意を感じます。
若くして代表歌人として重んじられ、期待に応えたいと全力で優れた歌を詠もうとした宮内卿の歌のなかでも、爽やかな早春の季節を瑞々しい感性で詠んだ一首を書で表しました。

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山深み

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山深み春ともしらぬ松の戸に 絶え絶えかかる雪の玉水(新古今和歌集:式子内親王)
Yama fukami haru tomo shiranu matsu no to ni taedae kakaru yuki no tama mizu
(Shinkokin Wakashū:syokushi naishinnou)

深山での遅い春の到来の喜びをとぎれとぎれに落ちかかる雪解けの滴(しずく)に見出した一首。
式子内親王は、後白河天皇の皇女で和歌を藤原俊成に師事し、俊成の子の藤原定家とも親交があった、新古今時代を代表する歌人です。内親王薨去前年に、後鳥羽院に詠進した百首歌「正治初度百首歌」にある一首です。
円熟した静かな境地で自然観照したなかで、雪解けの滴(しずく)を”雪の玉水”と創意した結句の優美な詞によって、しっとりとした気品ある式子内親王独特の世界が広がってみえます。”絶え絶えかかる”という詞によって、とぎれとぎれに落ちる玉水を捉えた視点は、日本独特の”間”による情趣があり、春の訪れの喜びが繊細で美しい詞を引き立て心に響きます。

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柳桜の色紙飾り

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江戸の花雛の面影を泉鏡花の『雛がたり』を拠り所に『見渡せば柳桜をこぎまぜて 都ぞ春の錦なりける』(古今和歌集:素性法師)の和歌から着想したものを色紙に表しものです。

『雛がたり』は、鏡花が6歳、7歳の頃に記憶した雛の節句の思い出を辿っていくなかで、母の持っていた雛の幻想が春の情景のなかで綴られています。『雛がたり』では、素性法師の和歌以来の美意識が随所に現われています。例えば、「白酒を入れたは、ぎやまんに、柳さくらの透模様(すきもよう)」とあるように、柳桜と雛の節句の季節感を結びつけています。とくに『雛がたり』の終盤、橋詰めにあるしだれ柳の浅翠の枝によって河原に敷かれた緋毛氈に雛壇が飾られた幻想をみるところは印象的です。

しだれ柳は奈良時代に中国より柳に託されてきた文化と共に日本に渡来し、都の朱雀大路を中心とした街路樹をはじめ、川の護岸などに広く植えられ、春を象徴するものとして捉えられてきました。柳の枝には、強い生命力、繁殖力があり、幸福と健康、繁栄が託されてきました。11世紀に中国の宋時代の詩人、蘇軾(そしょく)は春の景色を「柳は緑、花は紅」と詠じました。花は色とりどりに咲き誇り、自然のあるがままに生きています。「柳緑花紅(りゅうりょくかこう)」は、あるがままの春景色の素晴らしさを例える言葉として用いられてきました。
また、しだれ柳の浅翠のしなやかな枝は機織や染物を司る春の女神とされた佐保姫の染めた糸に見立てられ、春風と取り合わせて数多くの和歌が詠まれました。『雛がたり』の終盤に柔らかい風によってめくれた緋毛氈がしだれ柳にからむ光景は、鏡花が風に春の到来を告げる佐保姫を感じ取り、雛の幻想が浮かび上がってみえたと思わせます。鏡花は、古からしだれ柳に込めらてきたものを背景に、浅翠という色名に込めています。

春の柔らかな風と瑞々しい浅翠のしだれ柳、そして山桜を柔らかな質感の和紙で表しました。色紙の正方形の制約と短冊の幅の制約を2つの素材を取り合わせ、幅と長さを出しました。

” Willow & Cherry Blossoms ”

「雅な雛のつどい展」
2016年 1月27日(水)~2月2日(火) 
日本橋三越本店 新館8階 ギャラリーアミューズ
http://mitsukoshi.mistore.jp/store/nihombashi/event/index.html

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志賀の浦

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志賀の浦や遠ざかりゆく波間より 氷りて出づる有明の月(新古今和歌集:藤原家隆)
Shiga no ura ya tohozakari yuku nami ma yori kohorite iduru ariake no tsuki
(Shinkokin Wakashū:Fujiwara no Ietaka)

志賀は、琵琶湖の西南岸にあたる地名で古来より歌枕として詠まれてきました。志賀にはかつて大津京がありました。謡曲『志賀』の題名にもなっている地名です。

家隆の歌は、詞書に「摂政太政大臣家歌合に、湖上冬月(こじょうとうげつ)」とあり、この歌は歌合で詠まれたもので、次の歌を受けているとされています。

さ夜更くるままにみぎやは凍るらむ 遠ざかりゆく志賀の浦波(後拾遺和歌集:快覚法師)

琵琶湖の岸辺から遠退いた波間から、有明の月が現われる景色を詠っています。
本歌を受けて岸辺が凍りつき、岸辺に打ち寄せているはずの波は遠退いている情景が浮かびます。岸辺が凍りつくほどの凛とした厳寒の風景でありながら、素直で温かい家隆の人柄が偲ばれて余情を感じます。

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琳派と蕨

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桃山時代から江戸初期、書・陶芸・漆芸・出版など多彩な分野で活躍した琳派の始祖である本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)。2015年、1615年(元和元年)に光悦が徳川家康より京都の洛北の鷹ヶ峰(たかがみね)の地を拝領してから400年経ちました。鷹ヶ峰は、丹波・若狭と山城(京都)を結ぶ重要な出入り口の一つとなっていました。光悦が京の中心から移され、鷹ヶ峰の地を拝領した経緯や家康の真意は明らかでありませんが、光悦が師と仰いでいた古田織部の自刃に関わりがあると思われます。
鷹ヶ峰を拝領したのと同じく1615年(元和元年)、大坂夏の陣の折に大坂方に内通した嫌疑をかけられ、織部は自刃に追い込ました。このことによる光悦の鷹ヶ峰に移住後の心境の変化は、書の題材として雅な和歌から、中国の古典、『楚辞(そじ)』にある屈原(くつげん)の孤高を象徴する詩とされている「漁夫辞(ぎょふのじ)」を好むようになっていったところに現われています。

光悦が木工、金工、漆工、蒔絵、螺鈿(らでん:貝細工)などの工芸技術を持った人々を結集しさせ制作に関わったと伝えられている『樵夫蒔絵硯箱』 (きこりまきえすずりばこ:静岡・MOA美術館所蔵)で能の謡曲『志賀』が主題とされている背後に硯箱の内側で清らかな春を芽吹きの「蕨」と「蒲公英」(たんぽぽ)の葉に託したものがあると「光悦と春草」 で書きました。

光悦以後、琳派の系譜の春の主題として、尾形光琳(おがたこうりん)、尾形乾山(おがたけんざん)、酒井抱一(さかいほういつ)、鈴木 其一(すずき きいつ)、神坂雪佳(かみさかせっか)に至るまで芽吹きの美しさとして注目されたのが「蕨」です。「蕨」を描いた素朴で清らかな姿からは、万葉集の「いはばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」(志貴皇子:しきのみこ)の歌も想い起されます。

また、「蕨」からは司馬遷の『史記』伯夷列傳(はくいれつでん)第一 巻六十一にある物語が想起されます。

伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)は、殷(いん)の孤竹(こちく)国主の王子でした。父は、弟の叔斉を後継に選びます。父の亡き後、弟は兄を差し置き王位につくことを望まず、兄に王位を譲ろうとしますが互いに譲り合い、遂に二人ともに国を出奔します。その後、周の武王が殷の紂王(ちゆうおう)を討とうとした時、伯夷・叔斉は臣が君主を攻め滅ぼすことの非を説いて諌めますが聞き入られられず、殷は滅び周が天下を統一しました。伯夷・叔斉は、周の天下となった国で禄を食(は)むこと恥じて首陽山に隠れて蕨をとって食べて、ついに餓死したという伝説です。『史記』に伝えられた伯夷・叔斉の兄弟は、清廉潔白の人のたとえとされています。「蕨」は、清廉潔白の象徴ともいえます。

『樵夫蒔絵硯箱』の制作経緯は定かではありませんが、硯箱の中の蓋裏(ふたうら)・見込(みこみ)にある「蕨」には、古歌、故事などに託されてきたメッセージが込められていると思われます。
琳派の系譜を通じて「蕨」は春を象徴し、光悦の想いを継承する重要な主題となったと考えます。その一例として光悦没後200年ほど経て、鈴木 其一は『漁樵図屏風(ぎょしょうずびょうぶ)』で右隻に光悦の『樵夫蒔絵硯箱』から取材した樵(きこり)の歩く姿を描きました。樵の歩く道の傍らには蕨が描かれています。左隻は、紅葉の渓流を背景にした漁夫が描かれています。古来より「漁樵図」には中国より伝わった隠逸の思想が背景に込められてきました。『樵夫蒔絵硯箱』を想い起す、蕨の芽吹きがさりげなく描かれている清らかで瑞々しい春の景からは、光悦への想いが伝わってきます。

画像は蕨の芽吹きを和紙で縮小して表したものです。高さは、7.5cmほどです。
”Bracken”

「雅な雛のつどい展」
2016 1/27~2/2

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色のゆかりに

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三月

行春(ゆくはる)のかたみとやさく藤の花 そをたにのちの色のゆかりに
雲雀(ひばり)
すみれさくひはりのとこにやどかりて野をなつかしみくらす春かな
(『拾遺愚草』 中巻「詠草花鳥和歌」三月:藤原定家)

新古今時代を代表する平安末期から鎌倉初期に活躍した歌人、藤原定家(ふじわらのさだいえ)の私家集『拾遺愚草(しゅういぐそう)』の中巻に収められている、「詠花鳥和歌」(えいかちょうわか)各十二首にある三月を花鳥をテーマにそれぞれ一首詠んだものを書で表したものです。「詠花鳥和歌」は、十二ヶ月の花鳥をそれぞれ各月一首ずつ、合わせて二十四首詠まれています。
「詠花鳥和歌」は、茶の湯の普及と発展に伴い、定家の和歌の「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」が侘び茶の境地とされてより、絵画や工芸の主題として流行し、江戸時代には多くの作品が生み出されました。

そのなかでもの尾形乾山(おがたけんざん)筆「定家詠十二ヶ月和歌花鳥図 (ていかえいじゅうにかげつわかかちょうず)藤・雲雀)図(三月)」(出光美術館蔵)が浮かびます。尾形乾山が活躍した元禄年間の頃は、利休の没後百年に起因した侘び茶への回帰への流れがあった頃でもありました。「定家詠十二ヶ月和歌」を主題に同年代の狩野派・土佐派・住吉派などの絵師の作品にも残されており、盛んに制作されていた主題であることが窺えます。
尾形乾山筆の「定家詠十二ヶ月和歌花鳥図 藤・雲雀図(三月)」(出光美術館蔵)は、和歌を書と絵画によって一つの画面に表現したものです。藤は、松にかかる姿で和歌の心を描き、雲雀は春の野辺に菫(すみれ)の花が咲く情景のなかで遊ぶ姿によって和歌の心が表現されています。
また、乾山の作品には同じ主題で角皿の表面を絵画で表し、裏面に和歌を書で表した作陶の作品があります。表面に描いた絵から裏面に書かれた和歌を想い起す趣向による立体表現を試みたものです。

定家の「詠花鳥和歌」で三月を表す花として藤を主題にして詠んだ歌からは、藤の紫の色と”ゆかり”という詞から源氏物語を想い起します。晩春から初夏へと移り変わる季節、淡紫色の花を房状に咲かせる藤は、そのみずみずしい美しさから人々に愛されて「暮れゆく春を惜しむ花」として捉えられていました。
三月を表す鳥として雲雀を主題に詠んだ歌からは、万葉集にある「春の野にすみれ摘みにと来こし我ぞ野をなつかしみ一夜寝にける」という山辺赤人(やまべのあかひと)の歌が想い起され、古歌を慕う心と春の野辺の懐かしさを呼び起こすものとして菫が受け継がれてきたことが読み取れます。
定家が三月を象徴するものとして歌題に選んだ藤と雲雀の二首からは、藤の紫と菫の紫が心に残り、菫の咲く長閑な春の野を想い起してくれるのと同時に”紫のゆかり”を連想させます。三月を象徴する歌に託された定家の心は、泉鏡花が『雛がたり』で菫雛(すみれびな)のなかにも受け継がれていると感じます。

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冴えわびて

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さえわびてさむる枕に影みれば 霜ふかき夜の有明の月(新古今和歌集:藤原俊成女)
Saewabi te samuru makura ni kage mire ba shimo fukaki yo no ariake no tsuki
(Shinkokin Wakashū:Fujiwara no Toshinari no musume)

藤原俊成女(ふじわらのとしなりのむすめ)は、平安時代末期から鎌倉時代初めに活躍した女流歌人です。藤原俊成の養女で実母が俊成の娘にあたり、俊成は実の祖父にあたります。中世の初め、藤原俊成は余情静寂の美のあるものを幽玄として重んじました。
俊成女の歌は、余情妖艶美に優れたところに特徴があります。

冴え冴えとした冬の夜明け。身も心も消え入るばかりの侘しい想いを有明の月に託した歌。凍りつくほど冷たくなったと表現された枕には長い時間の経過と、悲しみの消えることがない嘆きが込められています。作者の心は言葉に現われず、枕元に月の光が差し込む先には深く置かれた霜があり、月の光と霜の白さによって打ち消されるように悲しみは心に沈められて浄化されていくのを感じます。

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初時雨

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世にふるはくるしきものを槙(まき)の屋に やすくも過ぐるはつ時雨かな(新古今和歌集:二条院讃岐)
Yo ni furu ha kurushiki mono wo maki no ya ni yasuku mo suguru hatu shigure kana
(Shinkokin Wakashū:Nijyouin no sanuki)

初時雨に寄せて想いを詠んだ歌を書で表しました。
二条院讃岐(にじょういんのさぬき)は、平氏と対立した源頼政(みなもとのよりまさ)の娘で、平安時代末期から鎌倉時代初めに活躍した女流歌人です。この歌は、後鳥羽院(ごとばのいん)が催された最大の歌合である「千五百番歌合」で詠まれたもので後世、和歌・連歌・俳諧へと多数の派生歌を生みました。
ぱらぱらと音を立ててさっと通り過ぎる時雨。時雨は、万葉集の時代から歌題として詠まれてきました。京都や奈良の地理的なもの、地形に依るところが時雨の風情に心を寄せることに繋がっていると思われます。木の葉を美しく色づかせて散らすものとして時雨は初冬の風物として捉えられていました。槙の屋とは槙の板で作った家をいいます。槙の板家は、初時雨の頃の季節感を背景にして侘びた寂しい風情を感じます。
槙の板家の屋根に雨音を立てて過ぎてゆく時雨。世のに生きながらえる苦しさを歌いながら、今年初めて聴く時雨の雨音に耳を澄まし、軽快で無邪気なものを雨音に感じて「やすくも」と表現したところは、無常観に留まらず自然観照によって得られた心安らかで静かな境地が感じられます。

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心あてに

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心あてに折らばやをらむ初霜の おきまどはせる白菊の花(古今和歌集:凡河内躬恒 )
Kokoro ate ni worabaya woramu hatushimo no oki madohaseru shiragiku no hana
(kokinwakashū:Ohshikouchi no Mitsune)

紀貫之(きのつらゆき)と並び、古今集時代を代表する歌人、凡河内躬恒(おうしこうちのみつね)の菊と霜とを見立てた趣向を詠んだ歌を書で表しました。

白に象徴される円熟の秋。露の冷気が霜となって降り始める頃、凛とした空気に冬の気配を感じます。白菊の咲く庭の景色が、初霜によって昨日までと一変したことが印象付けられ、”初霜”という詞に込められた感動が伝わってきます。

後世、古今和歌集の他にも多数撰ばれ、数多くの派生歌を生みました。
源氏物語第4帖「夕顔」にある「心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花」は、躬恒の歌からも発想を得ていると思われます。
なかでも、藤原定家(ふじわらのさだいえ)が『定家八代抄』、『詠歌大概』、『百人一首』に撰んだ歌として印象的です。定家の歌にも躬恒の歌から本歌取りしたものがみられます。

白菊の籬の月の色ばかりうつろひ残る秋の初霜

白菊、初霜、さらに月の光を取り合わせ、白を基調とした背景に心を詠んでいます。
定家の詠んだ和歌からは、白の持つ静謐、神聖、清浄無垢なイメージからどの色よりも艶やかに見え、寂寥感がいっそう深まって”あはれ”を誘うと感じ取った心が窺えます。

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秋の夕暮れ

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見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ(新古今和歌集:藤原定家)
Miwataseba hana mo momiji mo nakari keri ura no tomaya no aki no yufugure
(Shinkokin Wakashū:fujiwara no Sadaie)

鎌倉から江戸時代までの中世から近世へと時代が変遷していく過程で、「侘び」「寂び」という言葉に表現される、閑寂・簡素・枯淡の境地に美意識を見出していく背景には和歌文学の伝統がありました。
そのなかで、新古今和歌集の秋部に”三夕の歌 ”として寂蓮(じゃくれん)・西行(さいぎょう)の歌と並んで配列されている藤原定家(ふじわらのさだいえ)の和歌は、侘び茶の精神を象徴する和歌としてよく引用されます。
千利休の侘び茶を伝える『南方録』(なんぼうろく)で、侘び茶を切り開いた村田珠光(むらたしゅこう)の後を引き継いだ利休の師、武野紹鴎(たけのじょうおう)が「花紅葉を知らぬ人の、初めより苫屋には住まれぬぞ。ながめながめてこそ、苫屋のさびすましたる所は見立てたれ。これ茶の本心なりといわれしなり。」と定家の歌を引き、色彩豊かな花紅葉を眺めつくしてこそ、苫屋の侘びた寂しさが見出され、これこそ侘び茶の心であると説いています。

『南方録』は、利休の没後100年ほど経た江戸時代の元禄年間に福岡藩の家老、立花実山(たちばなじつざん)によって編まれたとされています。利休の死から100年、利休の侘び茶に回帰しようとする流れが起こった時期のものです。成立に謎や疑問の残る書ではありますが、利休の侘び茶を理解する上で参考になる書です。元禄年間に興った侘び茶への回帰の流れは、本阿弥光悦・俵屋宗達を始祖とした琳派の系譜を受け継ぐ尾形光琳・尾形乾山兄弟の作品の内にも反映されているように感じます。
また、1906年 (明治39年)に ニューヨークで出版された岡倉天心の『茶の本』の第4章「茶室」のなかにも「露地のしつらえ方の奥意は次の歌の中にある」として定家の歌を引いています。
花紅葉の華麗で感覚的な見た目や形の美しさと対照的な苫屋以外みえない景色は、「侘び」「寂び」で表現される奥底にある目に見える形ではない心の美、命の再生を内包する枯野の美が想い起こされます。

移ろい行く自然をあるがままに受け入れ、必要のないもの一切を削ぎ落とすことで生まれる閑寂の世界を表現した一首を書で表しました。

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