植物と文学:Plant in the literature」カテゴリーアーカイブ

秋深み

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秋ふかみ身にしむ風の夜半をへて 月もうれふる色ぞ添ひゆく(永福門院)
Aki fukami mi ni shimu kaze no yoha wo hete tsuki mo urefuru iro zo sohi yuku (Eifukumonin)

鎌倉時代、永仁五年(1297年)に行なわれた十五夜歌合の一首。永福門院は、伏見天皇の中宮となり、伏見天皇の譲位によって伏見院となられたのに伴い、門院となられました。伏見院と共に京極派を代表する女流歌人として歌壇で活躍されました。自然を深く凝視し、女性らしい感性で視覚・聴覚で捉えたものを詞に表現されました。門院の御歌の特徴は、自然事象を光・色彩・時間・距離感・動きによって感覚的に表現されたところにあります。
風によって悲哀の情をかき立てる秋。月の色も秋風によって伝えられた秋の心を受け、憂いを帯びた色に添えられていくのを感じ取った心を”色”という詞に込めた御歌を書で表しました。

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時ありて

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時ありて花も紅葉もひとさかり あはれに月のいつもかはらぬ(風雅和歌集:藤原為子)
Toki ari te hana mo momiji mo hito sakari ahare ni tsuki no itsu mo kawaranu
(Fuugawakashū:Fujihara no Tameko)

2015年の中秋の名月は、9月27日。古来、” もののあはれ ” の情趣を誘うものとして四季の移ろいと並び、月に心を託してきました。
春の花、秋の紅葉にはそれぞれに1年の内でも見ごろの時季があり、限られた一瞬の短い間、きらめくように美しい姿をみせてくれます。それに対して月は1年を通じて見ることができるものです。月にも満ち欠けがあり、日が経つにつれて見せる姿、形は移ろっていきます。
為子(ためこ)の歌は、四季を通じて自然をみた時、月だけは空にあり続けることがいっそう哀しさを誘うと捉えたところが中世の複雑な時代背景を感じます。風雅和歌集では雑(ぞう)の部に採られており、月の満ち欠けに ” あはれ ” を感じる視点とは異なる見方が印象的です。

盛りを過ぎて消えゆく花・紅葉を人の世の儚さに重ねて対比させ、不変の月に”あはれ”を想い心を託した歌を書で表しました。

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萩の花

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萩の花くれぐれまでもありつるが 月いでて見るになきがはかなさ ( 金槐和歌集:源実朝 )
Hagi no hana kuregure made mo aritsuru ga tsuki ide te miru ni naki ga hakanasa
(Kinkaiwakashū:Minamoto no Sanetomo)

源実朝の家集『金槐和歌集』にある一首。秋の月と萩を詠んだ和歌を書と萩の描画によって表しました。
実朝は、藤原定家に和歌を師事し、『万葉集』に心を寄せていました。実朝の歌は、自然観照を通して万葉的な率直な調べの中に、中世的な哀感を漂わせています。
秋を代表する花として詩歌に詠み継がれてきた萩。歌の詞書には、「庭の萩わづかにのこれるを、月さしいでてのち見るに、散りにたるにや、花の見えざりしかば」とあります。日暮れまで残っていた可憐な萩の花。萩の花が月の光に溶け込んでしまったか、散ってしまったのか見えなくなってしまったと命の儚さを秋の月と取り合わせ、繊細な感覚で捉えています。歌を人生的にみた、感受性の強い実朝らしいものを感じます。

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をみなへし

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人の見ることや苦しきをみなへし 秋霧にのみたちかくるらむ(古今和歌集:壬生忠岑)
Hito no miru koto ya kurusiki wominaeshi aki giri ni nomi tachi kakuru ramu
(kokinwakashū:Mibu no Tadamine)

『古今和歌集』の秋部に配列されている歌の詞書には、「朱雀院の女郎花合(をみなへしあはせ)にてよみたてまつりける」とあります。詞書にある「女郎花合(をみなへしあはせ)」とは、オミナエシの花に和歌を添え、花と歌の優劣競い合った歌合(うたあわせ)で、898年に宇多上皇が主催しました。
この歌合には、壬生忠岑(みぶのただみね)をはじめ、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、藤原興風(ふじわらのおきかぜ)、紀貫之(きのつらゆき)、源宗于(みなもとのむねゆき)、女流歌人の伊勢(いせ)など古今時代を代表する歌人が招かれました。

秋の七草のひとつ、オミナエシ。『万葉集』に撰集された歌が詠まれた上代、女郎(をみな)には若い女性、高貴な女性、佳人の意味を込めていました。『万葉集』の歌にみられるオミナエシを女性に見立てたイメージは、受け継がれていきました。
風になびく姿がたおやかなオミナエシを高貴な女性に見立て、秋霧が隠すという趣向の歌を書と描画で表しました。

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葛の葉

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吹きまさる風のままなる葛の葉の うらめづらしく秋はきにけり(玉葉和歌集:一条実経)
Fuki masaru kaze no mama naru kuzu no ha no ura medurasiku aki ha kini keri
(Gyokuyouwakashū:Ichijyou uchitsune)

風の吹くままに葉裏をみせる葛の葉に秋を感じ、「うらめづらしく」と心惹かれる想いを詠んだ歌です。「うらめづらしく」の「うら」には、葉の裏と心の内が重ね合わされています。葛は、風と取り合わせて和歌に詠まれることが多く、花よりも葉が注目されていました。
風が激しくなり、野辺の葛の葉が吹き返されて白く波立つ情景が浮かび上がってみえます。時の移ろい、肌で感じた冷気、風の音、葉の動き、野辺の空気感など五感で感じた秋の情趣が伝わってきます。

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涼しき影

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むすふてに涼しき影をそふるかな 清水にやとる夏のよの月(西行法師家集:西行)
Musufu te ni suzushiki kage wo sofuru kana shimitsu ni yatoru
natsu no yo no tsu ki (Saigyouhoushikashū:Saigyou)

手で掬った清水に映った「夏の月」を詠んだ西行の一首を書で表したものです。
納涼を感ずる対象として詠まれた「夏の月」。自然を詠んだ西行も月をよく詠みました。
泉の澄みきった透明感とひんやりした手の感触、涼やかに白く輝く月が合わせられ、より清涼な印象が深まって感じられます。
水に宿る月には、白く輝く月に託した清らかで揺るがない心の深さを感じます。

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夏の夜

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夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづこに月やどるらむ (古今和歌集:清原深養父)
Natsu no yo ha mada yohi nagara akenuru wo kumo no izuko ni tuki yadoru ramu
(kokinwakashū:kiyohara no fukayabu)

清原深養父(きよはらのふかやぶ)は、『枕草子』で「夏はよる。月の頃はさらなり。」と夏の夜の情趣を伝えた清少納言の曽祖父にあたります。古今時代の歌人、紀貫之(きのつらゆき)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)と交流のあった歌人です。

『古今和歌集』の夏部に「月のおもしろかりける夜、あかつきがたによめる」と歌の詞書があります。
短夜の夏、涼やかな月の余韻を感じる一首です。秋の月とは違った夏の月の趣を見出した平安期。「夏の月」が歌題として現われた頃に詠まれた歌からは、白く照らした月の光に爽涼を感じた観月を愉しむ心が格調高く真っ直ぐに伝わってきます。

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夏の月

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夏の月ひかり惜しまず照る時は 流るる水にかげろふぞ立つ(藤原興風)
Natsu no tsuki hikari woshimazu teru toki ha nagaruru mizu ni kagerofu zo tatsu
(Fujiwara no okikaze)

平安時代の寛平初年(889年)の頃、『古今和歌集』の成立より前の時代に宇多天皇の皇太后が主催した寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおんとききさいのみやうたあわせ)の一首を書で表したものです。

平安初期、唐風文化の隆盛が終わりを告げて日本の風土にあったものを際立たせようと国風文化へと転換された時代の歌です。寛平御時后宮歌合は、親しみやすい和歌を復興して普及させることで国風文化を推進させる役割を担いました。
寛平御時后宮歌合には、藤原興風(ふじわらのおきかぜ)をはじめ紀貫之(きのつらゆき)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)素性法師(そせいほうし)、大江千里(おおえのちさと)など上流貴族に限らず、年齢の上下に関わらず優れた歌を詠む才能ある歌人が見出されて集められました。

「夏の月」が歌題として現われたのは寛平御時后宮歌合の頃。唐時代の白居易の『白氏文集』にある詩中で「月照平砂夏夜霜」(月は平沙(へいさ)を照らす 夏の夜の霜)と夏の月を「夏の夜の霜」と捉えた表現が菅原道真をはじめ、多くの人の心を捉えました。漢詩文より享受されたものが日本の風土と感性に合った表現となって展開されました。藤原興風の「夏の月」は、そうした背景から詠まれたもので、流れる水にゆらめき映る月を陽炎に見立てました。

平安期に「夏の月」に美を見出したことは後世に影響を及ぼしました。情趣を感じるものとして和歌や物語、随筆、俳句などさまざまに広がりました。『枕草子』第一段で清少納言は、「夏はよる。月の頃はさらなり。」と夏の月を賛美しています。短い夏の夜。夏の月は”涼”を感じるものとして「納涼」の歌題の素材としても受け継がれています。古代より受け継がれている神聖で清らかなものを尊ぶ心が月の光の冴えた白色に想われます。

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音せぬ波

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みだれ蘆(あし)の下葉なみより行く水の 音せぬ波の色ぞ涼しき(風雅和歌集:後鳥羽院)
Midare ashi no sitaba nami yori yuku mizu no woto senu nami no iro zo suzushiki
(Fuugawakashū:Gotoba no in)

『新古今和歌集』の編纂の命を下し、編纂にも深く関わったとされる後鳥羽院の御歌を書で表したものです。『新古今和歌集』の成立から150年ほど後の『風雅和歌集』の夏部にある「納涼」という歌題に配列されている一首です。新古今時代の後鳥羽院の御歌は、納涼詠に夏部の特色が色濃く出ている『風雅和歌集』の時代の京極派歌人の歌とも自然と調和し、響き合っています。『風雅和歌集』は、繊細な自然描写、閑寂、内省的、寂寥美に特色がある勅撰和歌集です。

夏の歌題として「納涼」は平安期に時代が進むにつれて定着し、展開されていきました。納涼が夏の景物として題詠されるようになる背景には、平安初期の菅原道真の『菅家文草』をはじめとする漢詩文にみられる「納涼」を題としたものがあり和歌の題にも取り入れられ、反映されていったものと思われます。

「納涼」の題材として主なものは水・木陰・月・風・川などの自然事象が挙げられます。夏の涼気を感じるものに美意識を持ち、歌に詠みました。夏の暑気よりも涼気に関心を持ち、歌題として展開されていった背景には、夏の京都の気候も関係していると思われます。「納涼」は、月と水、風と木陰など自然事象を複合的に捉えられることで時の移ろい、新たな視点の展開、五感で捉えた表現を深めていくものに繋がっています。

画像で取り上げた一首が選ばれている『風雅和歌集』より以前に同じく京極派の歌人が中心となって編纂された『玉葉和歌集』と共通して他の時代の勅撰集と価値観の違いが現われているのが、「納涼」という題によって表現された世界です。
『古今和歌集』から『風雅和歌集』までの勅撰集でみてみると、玉葉・風雅を除いた夏部では伝統的な歌題「五月雨」「郭公(時鳥)」(ほととぎす)を詠んだものが圧倒的に多くなっています。「納涼」を題としたものについては、夏部の配列からみてみると1~2首、多くて5~6首みられる程度です。
それに対して『玉葉和歌集』では19首、『風雅和歌集』では12首が夏部に配列されており、細やかに自然を観察して涼を感じるものを見出し、新たな風を興す題材として重視されていたことがわかります。

画像の後鳥羽院の御歌は、水面に映る生い茂る蘆(あし)の葉の影を「音せぬ波」と捉えた詞が斬新です。乱れ立つ蘆の風情に心を寄せ、音のない波の色に涼を感じ取ったところは中世の「幽玄」の美意識よりも、「寂び」「侘び」「軽み」の近世の美意識に近いもの、繋がるものが感じられ、南北朝時代に編纂された『風雅和歌集』の時代背景が窺えます。

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なでしこの露

nadesiki-no-tuyu

山がつの垣ほ荒るともをりをりに 哀れはかけよ撫子の露(右:第2帖「帚木」夕顔)
山がつの垣ほに生ひし撫子の もとの根ざしを誰れか尋ねむ(左:第26帖「常夏」玉鬘)

『源氏物語』のなかで夕顔と玉鬘の母娘の絆を「撫子(なでしこ)」の花に込めた和歌です。
第4帖「夕顔」のなかで、紫式部は夕顔の花について次のように書いています。

『かの白く咲けるをなむ、夕顔と申しはべる。花の名は 人めきて、かうあやしき 垣根になむ咲きはべりける』 と夕顔の花のイメージを述べています。「花の名前は人のようで、このような粗末な家の垣根に咲いているもの」と表現しており、夕顔の隠れ住む家の周囲の気配から、両親を亡くした中流貴族の娘という身の上が偲ばれます。また、夕顔の花は高貴な貴族にとっては身近に見られない大変珍しい、神秘的なものでした。第4帖「夕顔」は、夕顔の花の神秘性によって展開されています。

右の歌は夕顔の詠んだ歌です。「撫子」に愛児を想起させる伝統的な常套表現です。我が子を可愛がって欲しいと来訪を促すものです。
左の歌は夕顔の娘、玉鬘の歌です。『山がつの垣ほに生ひし撫子の』と右の夕顔の歌を受けながら、源氏の詠んだ『撫子のとこなつかしき色を見ば もとの垣根を人や尋ねむ』に答えたものです。母の元を誰が尋ねましょうかと返したものです。
夕顔の平凡な歌と対比させることで、玉鬘の人となりが際立ってみえます。
玉鬘の歌は、古今和歌集にある『あな恋し今も見てしか山がつの 垣ほに咲ける大和撫子』(読人しらず)を踏まえているとされています。

玉鬘の歌での「撫子」は、紫式部が夕顔の花に込めたものと同じく山里の粗末な家の垣根に咲いているような花として捉えており、「撫子」の花によって母の身の上を伝えています。また、「山がつ」については、第4帖「夕顔」のなかで『物の情け知らぬやまがつも』と書いており、物の情趣もわからないという意味も込めていると思われます。
また、「撫子」の花に母の命の儚さを重ね、花の色香は移ろいやすく儚いものとも暗示しています。玉鬘は幼少で母を亡くしてから、都を離れて鄙(ひな)の地で暮らしてきたことに引け目を感じています。紫式部は、玉鬘を紫の上と同様な境遇に置きながら、内大臣となった頭中将の娘であり源氏の養女となっても、自分の身は取るに足らないもの、人数に入らないものと思う心情を「撫子」の花に込めたと思われます。玉鬘の歌からは、河原撫子の楚々と咲く花の風情が思われて思慮深く、謙虚な人柄が伝わってきます。

’Genji Monogatari Yugao&Tamakazura”

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