植物と文学:Plant in the literature」カテゴリーアーカイブ

玉鬘(たまかずら)

tokonatu-1

和紙による河原撫子(かわらなでしこ)を白い扇子にあしらい、背景の和紙と取り合わせて源氏物語に登場する女性、玉鬘(たまかずら)をイメージしました。
玉鬘とは、『源氏物語』第2帖「帚木」(ははきぎ)での「雨夜の品定め」の物語において源氏の親友、頭中将( とうのちゅうじょう)が語った常夏(とこなつ)にたとえた女性との間に生まれた女君です。後に、源氏の養女として六条院の夏の町に迎えられ、花散里(はなちるさと)が後見となりました。常夏の女性とは第4帖「夕顔」に登場する女性、夕顔をさします。
「常夏」は、「撫子」の古名です。「撫子」は、万葉集にも詠まれてきた在来種の河原撫子で、中国から伝来した唐撫子(からなでしこ)に対して大和撫子とも呼ばれます。紫式部は、大和撫子と唐撫子の花の趣を使い分けて物語を展開しています。「帚木」のなかで、頭中将が『咲きまじる花は何れとわかねども なほ常夏にしくものぞなき』と艶やかな常夏の花にたとえ、夕顔を称えています。
物語では、常夏と対照的に撫子が捉えられています。撫子は、子を慈しむ心を象徴するものの他、物語では野辺の花に夕顔の身の上を託し、玉鬘と母娘の絆を表すものとなっています。
玉鬘は、撫子(なでしこ)にたとえられる女君として物語の中で位置付けられます。第2帖「帚木」の雨夜の品定めの物語中に夕顔と頭中将の間で愛児として「撫子」と呼ばれて登場します。
第26帖「常夏」では、大和撫子と唐撫子を取り混ぜて一面に配した情景の中で玉鬘の物語が繰り広げられています。「撫子」の物語の背景には夕顔が思い起されます。
玉鬘の名からは美しく、数奇な運命を背負った女性と読み取れますが、撫子と常夏の花の名に込められた特徴を併せ持った明るく可憐、謙虚な人柄が伝わってきます。

”Genjimonogatari Tamakazura”

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村

Facebook にシェア

朝の色

asanoiro-

ふりすさぶあさけの雨のやみかたに 青葉涼しき風のいろかな(伏見院御集:伏見院)
Furi susabu asake no ame no yamikata ni aoba suzushiki kaze no iro kana
(fushiminoingyoshū:fushimi no in)

『朝色』という題で詠まれた夏の叙景歌。
雨上がりの早朝の清々しい空気感を色で捉えたところが清新に感じます。
雨を好んで詠んだ京極派を代表する歌人、伏見院の歌集『伏見院御集』の一首です。
雨水をたっぷりと含んだ瑞々しい青葉の輝きが、時間の推移によって鮮明になっていくのを感じます。動的な降り荒ぶ激しい雨の音が止んだあと、対照的な静謐さが際立って感じられて雨によって洗い清められた青葉を渡る風もいっそう爽やかに伝わってきます。
和歌を書いた短冊、背景の和紙、青楓の葉の取り合わせによって夏の景を表しました。

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村

Facebook にシェア

「かへりこぬ」

kaherikonu-

かへりこぬ昔を今と思ひ寝の 夢の枕ににほふ橘(新古今和歌集:式子内親王)
Kaheri konu mukashi wo ima to omohi ne no yume no makura ni nihofu tachibana
(Shinkokin Wakashū:syokushi naishinnou)

懐かしい思い出、昔の人を追憶させる橘の花の香。「かへりこぬ昔」に懐古の心情の強さが表されています。
式子内親王は、新古今時代を代表する歌人の一人です。後白河天皇の皇女で源平の戦乱の時代、和歌を藤原俊成に師事し、俊成の子の藤原定家とも親交がありました。
幼くして賀茂斎院となり10年ほど賀茂神社で奉仕され、病で斎院を退かれてからは和歌に心を寄せられました。政変に巻き込まれるなど心穏やかに暮らせない世にあって、芯の強さを持って独自の世界観を歌に詠みました。
式子内親王の優美で気品ある歌の内に秘めた想いが、橘の香から伝わってくる一首を書で表しました。

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村

Facebook にシェア

花散里

hanachirusato-1

常緑の葉に永遠を象徴するものとして、想いを託されてきた橘。
初夏、青々と繁った葉の中に白い可憐な花が点在するように咲く橘は、夏の景物として親しまれてきました。
白い小さな花は目立つことなく、木々の影から漂う香によって存在に気づくものとして和歌に詠まれてきました。橘の花の香には、懐かしさ、心安らぐものを連想させる力があります。
また、橘というと『源氏物語』で夏の季節を象徴する女性として、六条院の夏の町に住む「花散里(はなちるさと)」が想い起されます。おおらかで、誠実な人柄を橘の花のイメージにたとえ、「花散里」という名に込めたと思われます。
「花散里」については、次の歌が引かれているとされています。

橘の花散る里のほととぎす 片恋しつつ鳴く日しそ多き (万葉集:大伴旅人)

大伴旅人が、亡妻を追慕して詠んだ歌です。橘の永続性と懐古の想い、現実の世の儚さが込められています。

『源氏物語』での橘の「花散る里」という表現からは、花が散ってしまっても樹の姿は年中変わることなく緑の葉を繁らせ、また翌年にはさりげなく香しい花を咲かせて心和ませてくれることを予感させてくれます。「花散里」の登場する場面では、誠実で変わることのない人柄の温かさが伝わってきます。橘の花に「花散里」のイメージを重ねてみました。

“Hanachirusato”

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村

Facebook にシェア

夏雨

natunoame-1

夏草のみどり若葉雨をうけてなびく姿はみるも涼しき (後伏見院)
Natugusa no midori wakaba ame wo ukete nabiku sugata ha miru mo suzushiki (Gofushimi no in)

鎌倉時代後期、乾元二年(1303年)に行なわれた『仙洞五十番歌合』で「夏雨」という題で詠まれた一首を書で表しました。
爽やかな新緑の瑞々しさが心地よい、清新な印象の夏の叙景歌です。雨の音も清々しく聴こえてきて、夏草、新緑の青葉の鮮やかな色彩としなやかで流れるような動きも感じられます。自然の中で起こる現象を五感で捉え、心に従って詠んだ感動がまっすぐに伝わってきます。

平安末期~鎌倉時代初めの中世の始まりに、戦乱の世で西行は山懐に抱かれる世界に生きて自然観照の歌を詠み、藤原定家は戦乱の世とかけ離れた歌の世界で詞に磨きをかけ「新古今集」に昇華させていきました。
その後、藤原定家の子から孫へと和歌が継承されていくなかで、御子左家(二条家)、冷泉家、京極家の3つの流れに分かれ、歌壇は御子左家の二条派が主流となりました。「新古今集」以降、目新しさが見出せなくなった歌壇に新風を興したのが、藤原定家の曾孫にあたる京極為兼が中心となった京極派と呼ばれる流れです。

『仙洞五十番歌合』では、為兼を中心とした京極派の歌人によって「古今集」以来の勅撰和歌集の伝統に最後の輝きを放った「玉葉集」・「風雅集」の布石となる、斬新な視点を持った秀歌が多く生み出されました。「玉葉集」・「風雅集」は、「古今集」・「新古今集」が原点に立ち戻って「万葉集」を拠り所として新たな境地を開いていったように、同じく原点に立ち戻り「万葉集」に拠り所を求め、「心」を重視しました。
また、「玉葉集」・「風雅集」は、動乱が続いた不安定な時代背景があり、心の拠り所として自然を求めたていったことは自然観照を深めていった歌境に反映されています。

京極派の歌人の特徴として、雨を好んで詠じたことは「玉葉集」・「風雅集」によく顕れています。四季それぞれの季節を雨で表現し、他の勅撰集と比較して歌数が突出しています。
また、他の勅撰集と比較して季節によって歌数の差が大きくないのも、雨を四季を通じて観察し、自然観照を深化させていった表れと思います。

そのなかで、「玉葉集」・「風雅集」に「五月雨」とは独立した歌題として「夏雨」が配列されています。「玉葉集」では、「卯の花」「時鳥(ほととぎす)」の後、「風雅集」では「卯の花」の後と夏の初めに配列されています。「玉葉集」・「風雅集」に採られた歌数としては1~2首と少ないですが、長雨の「五月雨」の情趣とはっきりと区別し、初夏の情趣にこだわりを持って「夏雨」と季節の名を入れて題としたことは、「玉葉集」・「風雅集」夏部の歌題の配列が伝えています。

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村

Facebook にシェア

春の隔て

harunohedate-1

我が宿の垣根や春をへだつらむ夏来にけりと見ゆる卯の花 (拾遺和歌集:源順)
Waga yado no kakine ya haru wo hedatsu ramu natu kini keri to miyuru unohana
(Minamoto no Shitagou)

「卯の花」と呼ばれて親しまれてきたウツギ。ウツギは家の周囲との境に垣根として古代より植えられ、「卯の花」と「垣根」を組み合わせた歌は万葉集にもみられます。
古今集以降、夏の景物として位置付けられ、「卯の花」と「垣根」の組み合わせによる表現は受け継がれていきました。
画像は、「卯の花」の垣根を春と夏を隔てる境界として捉えた一首を書で表したものです。

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村

Facebook にシェア

更衣

koui-1

櫻色の衣にもまたわかるゝに春を残せるやどのふぢなみ (風雅和歌集:式子内親王)
Sakura iro no koromo nimo mata wakaruru ni haru wo nokoseru yado no fuji nami (Fūga Wakashū:syokushi naishinnou)

春から夏へと季節の色が移り変わる時季。平安時代、宮廷では旧暦4月1日に春着から夏着へと改められていました。
風雅和歌集では夏部の始まり、更衣の題に配列されている歌です。夏着に移り変わる時季になっても、藤の花の咲く辺りは、華やいだ春の気配が漂っています。無心に咲く藤の花に託した惜春の想いを書で表しました。

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村

Facebook にシェア

光悦と春草

harukusa-15-2

書・陶芸・漆芸・出版など多彩な分野で独自の境地を開いた本阿弥光悦。桃山時代から江戸初期、光悦によって見出された俵屋宗達とともに琳派と呼ばれる系譜の中で、伝統的な秋草の美とは対照的な春草の美を見出し、尾形光琳や酒井抱一などに受け継がれていきました。

光悦は、和歌や物語、謡曲などから取材した作品を多く残しています。それらを敬愛し、そこから創作意欲、発想を得たことが作品から伝わってきます。光悦の書からは、温かで生命感に溢れ、生きる悦びが伝わってきます。
また、光悦は茶の湯を古田織部に師事しました。光悦は、利休を選ばず、織部を師に選びましたが、命の芽生えの美を愛でる心、大胆で斬新な発想を次々と実現させていく源には、利休から織部が受け継ぎ、そして織部から受け継いだ精神が創作に反映されているように感じます。

光悦は、心を「もの」づくりによって表現するため、木工、金工、漆工、蒔絵、螺鈿(らでん:貝細工)など、様々な工芸技術を持った人々を結集しました。そのなかで、光悦が制作に関わったと伝えられている『樵夫蒔絵硯箱』 (きこりまきえすずりばこ:静岡・MOA美術館所蔵)から春草に込めたものが想い起されます。硯箱の外形は、山形に盛り上げられ、蓋の表には薪(たきぎ)を背負って歩くきこりの姿が全面に大きく表されており、主題の意外性と形の意外性を感じます。

この硯箱の意匠は能の謡曲『志賀』より取材されたものといわれています。
『志賀』は、古今和歌集の序文のなかに挙げられている六歌仙の一人、大伴黒主(おおとものくろぬし)を紀貫之が評した「薪負へる山人の、花の陰にやすめるがごとし」を題材にさまざまな和歌を引き、世阿弥の指す道(花)を伝えています。
『志賀』を踏まえてみると、世阿弥の指す道(花)を受けているように思われます。

その一方で主題からは、藤原家隆の家集にある和歌が浮かびました。
「つま木には野辺のさわらび折りそへて 春の夕にかへる山人」(壬二集 上:後度百首)という歌です。薪を背負った山人が、野辺の早蕨を手折って里に帰って行く長閑な春の情景を詠んだもので、硯箱全体に表されているイメージと重なり、幸福感が伝わってきます。
藤原家隆は、藤原俊成に師事した藤原定家と同時代の歌人です。「花をのみ待つらむ人に山里の 雪間の草の春をみせばや」という家隆の歌は千利休が好んだ歌として、利休の茶、美意識を説くのによく引用されます。ささやかな芽生えの美しさを伝えたいという心に惹かれる歌です。

主題の人物が前に向かって山路を生き生きと歩いていく姿からは、古典や師から享受したものを土台に新たな道を開き、進んでいこうという想いも感じられ、清々しく心に響きます。硯箱には、花は見えません。目で見えるものがすべてではなく、花は心で感じて想うものと読み取れます。

『志賀』では、今を盛りの山桜の元で展開されますが、『樵夫蒔絵硯箱』では、硯箱の内側で清らかな野辺の春を蕨と蒲公英(たんぽぽ)によって伝えています。
蕨については、古より神聖で春の到来の証として捉えられてきたことは、2015年1月5日の記事(「春のしるし」:https://washicraft.com/archives/7320 )で書きました。蕨を主題にしたものは、俵屋宗達の扇面画などにもみられ、光琳に受け継がれていきます。

蒲公英は、蕨のように若苗を山菜としていたことが江戸時代に書かれた『本朝食鑑』などの書物から窺えます。蒲公英は、地面を這うように葉を広げて風をよけ、葉が重なり合わないよう四方に広がり、日光を十分に受けて越冬し、花開く時を待ちます。蒔絵に表されている蒲公英は、葉の性質を捉えて中央に配置され、心を託していると思われます。蒲公英の花ではなく、葉の描写によって伝えているところが印象的です。
硯箱全体から命が再生する瑞々しい春の到来の歓びが伝わってきます。

画像は、春野のイメージを菫と蒲公英、背景の和紙によって表したものです。
にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村

Facebook にシェア

ゆかりの色

fuji-15-a

紫のいろのゆかりに藤の花 かゝれる松もむつまじきかな(金葉和歌集:藤原顯輔)
Murasaki no iro no yukari ni fuji nohana kakareru matsu mo mutsumajiki kana
(Kinyouwakashū:Fujiwara no akisuke)

紫の色名、ゆかりという詞、藤の花からは源氏物語を想い起します。
樹齢の長い藤、吉祥の象徴の松は相性がよいところから、紙雛の衣裳の図柄にもよく見られます。
むら染めの和紙に和歌を書いたものに和紙の花を散らし、背景に友禅紙を取り合わせました。

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村

Facebook にシェア

琳派と春草

hinabina-seusu-1

日本の四季の中で寂寥感を醸し出す秋草は、「あはれ」を伝えるものとして和歌や物語、絵画、工芸、服飾品などの題材としてさまざまな様式で表現されてきました。
万葉集にある山上憶良(やまのうえのおくら)の「 秋の野に咲きたる花を指(および)折り かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花また藤袴 朝貌(あさがお)の花 」という秋の七草を詠んだ歌に代表されるように、四季のなかでも秋の草花に格別な想いを寄せてきました。

秋草に対して、明るく伸びやかでほのぼのとしたもの、懐かしさを感じさせる春草。
王朝文化の憧れから独創的な表現、創造を広げた本阿弥光悦・俵屋宗達に始まる「琳派」と呼ばれる系譜では、土筆(つくし)、蕨(わらび)、蓮華(れんげ)、菫(すみれ)、蒲公英(たんぽぽ)、菜の花、桜草、苧環(おだまき)など春草を主題にした作品に独創性を感じます。

萩に代表される秋草の繊細で優美な趣のものとは対照的な土筆や蕨、菫など素朴で侘びた風情の春草。春草も秋草も、野辺にあるもの、身近に自生しているものです。
秋草は、風になびく様や月の移ろいとなど動的なもの、移ろいゆくものと取り合わせられることも多く、「あはれ」を誘うものを伝えてきました。
琳派では、春草には秋草とは対照的に、しっかりと大地に根を張り、可憐さの内に動じない力強い生命感、人の心に懐かしさと和やかさを想い起こしてくれるものを求めていったように思います。
なだらかな曲線で小高く盛り上がった地面を図様化した土坡(どは)に土筆や蕨がシンプルに表されたものからは、春ならではの情趣があり、俳諧が普及した時代背景からも春草に心を寄せる想いを感じます。
春草に美を見出し、野辺の情景に託して「もののあはれ」と表現される雅でしみじみとした情趣を和歌や物語、謡曲など古典を題材に明るく生き生きと伝えているところに時代の勢いを感じます。

江戸後期の江戸琳派による春草を雛に見立てた雅な花雛も、そうした流れの中で描かれていったものと思います。
画像は、蓮華と蒲公英を旧暦の上巳の節句に寄せて、雛に見立てて扇子にあしらったものです。

”Spring wildflowers”

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村

Facebook にシェア