植物と文学:Plant in the literature」カテゴリーアーカイブ

夏の夜

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夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづこに月やどるらむ (古今和歌集:清原深養父)
Natsu no yo ha mada yohi nagara akenuru wo kumo no izuko ni tuki yadoru ramu
(kokinwakashū:kiyohara no fukayabu)

清原深養父(きよはらのふかやぶ)は、『枕草子』で「夏はよる。月の頃はさらなり。」と夏の夜の情趣を伝えた清少納言の曽祖父にあたります。古今時代の歌人、紀貫之(きのつらゆき)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)と交流のあった歌人です。

『古今和歌集』の夏部に「月のおもしろかりける夜、あかつきがたによめる」と歌の詞書があります。
短夜の夏、涼やかな月の余韻を感じる一首です。秋の月とは違った夏の月の趣を見出した平安期。「夏の月」が歌題として現われた頃に詠まれた歌からは、白く照らした月の光に爽涼を感じた観月を愉しむ心が格調高く真っ直ぐに伝わってきます。

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夏の月

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夏の月ひかり惜しまず照る時は 流るる水にかげろふぞ立つ(藤原興風)
Natsu no tsuki hikari woshimazu teru toki ha nagaruru mizu ni kagerofu zo tatsu
(Fujiwara no okikaze)

平安時代の寛平初年(889年)の頃、『古今和歌集』の成立より前の時代に宇多天皇の皇太后が主催した寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおんとききさいのみやうたあわせ)の一首を書で表したものです。

平安初期、唐風文化の隆盛が終わりを告げて日本の風土にあったものを際立たせようと国風文化へと転換された時代の歌です。寛平御時后宮歌合は、親しみやすい和歌を復興して普及させることで国風文化を推進させる役割を担いました。
寛平御時后宮歌合には、藤原興風(ふじわらのおきかぜ)をはじめ紀貫之(きのつらゆき)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)素性法師(そせいほうし)、大江千里(おおえのちさと)など上流貴族に限らず、年齢の上下に関わらず優れた歌を詠む才能ある歌人が見出されて集められました。

「夏の月」が歌題として現われたのは寛平御時后宮歌合の頃。唐時代の白居易の『白氏文集』にある詩中で「月照平砂夏夜霜」(月は平沙(へいさ)を照らす 夏の夜の霜)と夏の月を「夏の夜の霜」と捉えた表現が菅原道真をはじめ、多くの人の心を捉えました。漢詩文より享受されたものが日本の風土と感性に合った表現となって展開されました。藤原興風の「夏の月」は、そうした背景から詠まれたもので、流れる水にゆらめき映る月を陽炎に見立てました。

平安期に「夏の月」に美を見出したことは後世に影響を及ぼしました。情趣を感じるものとして和歌や物語、随筆、俳句などさまざまに広がりました。『枕草子』第一段で清少納言は、「夏はよる。月の頃はさらなり。」と夏の月を賛美しています。短い夏の夜。夏の月は”涼”を感じるものとして「納涼」の歌題の素材としても受け継がれています。古代より受け継がれている神聖で清らかなものを尊ぶ心が月の光の冴えた白色に想われます。

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音せぬ波

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みだれ蘆(あし)の下葉なみより行く水の 音せぬ波の色ぞ涼しき(風雅和歌集:後鳥羽院)
Midare ashi no sitaba nami yori yuku mizu no woto senu nami no iro zo suzushiki
(Fuugawakashū:Gotoba no in)

『新古今和歌集』の編纂の命を下し、編纂にも深く関わったとされる後鳥羽院の御歌を書で表したものです。『新古今和歌集』の成立から150年ほど後の『風雅和歌集』の夏部にある「納涼」という歌題に配列されている一首です。新古今時代の後鳥羽院の御歌は、納涼詠に夏部の特色が色濃く出ている『風雅和歌集』の時代の京極派歌人の歌とも自然と調和し、響き合っています。『風雅和歌集』は、繊細な自然描写、閑寂、内省的、寂寥美に特色がある勅撰和歌集です。

夏の歌題として「納涼」は平安期に時代が進むにつれて定着し、展開されていきました。納涼が夏の景物として題詠されるようになる背景には、平安初期の菅原道真の『菅家文草』をはじめとする漢詩文にみられる「納涼」を題としたものがあり和歌の題にも取り入れられ、反映されていったものと思われます。

「納涼」の題材として主なものは水・木陰・月・風・川などの自然事象が挙げられます。夏の涼気を感じるものに美意識を持ち、歌に詠みました。夏の暑気よりも涼気に関心を持ち、歌題として展開されていった背景には、夏の京都の気候も関係していると思われます。「納涼」は、月と水、風と木陰など自然事象を複合的に捉えられることで時の移ろい、新たな視点の展開、五感で捉えた表現を深めていくものに繋がっています。

画像で取り上げた一首が選ばれている『風雅和歌集』より以前に同じく京極派の歌人が中心となって編纂された『玉葉和歌集』と共通して他の時代の勅撰集と価値観の違いが現われているのが、「納涼」という題によって表現された世界です。
『古今和歌集』から『風雅和歌集』までの勅撰集でみてみると、玉葉・風雅を除いた夏部では伝統的な歌題「五月雨」「郭公(時鳥)」(ほととぎす)を詠んだものが圧倒的に多くなっています。「納涼」を題としたものについては、夏部の配列からみてみると1~2首、多くて5~6首みられる程度です。
それに対して『玉葉和歌集』では19首、『風雅和歌集』では12首が夏部に配列されており、細やかに自然を観察して涼を感じるものを見出し、新たな風を興す題材として重視されていたことがわかります。

画像の後鳥羽院の御歌は、水面に映る生い茂る蘆(あし)の葉の影を「音せぬ波」と捉えた詞が斬新です。乱れ立つ蘆の風情に心を寄せ、音のない波の色に涼を感じ取ったところは中世の「幽玄」の美意識よりも、「寂び」「侘び」「軽み」の近世の美意識に近いもの、繋がるものが感じられ、南北朝時代に編纂された『風雅和歌集』の時代背景が窺えます。

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なでしこの露

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山がつの垣ほ荒るともをりをりに 哀れはかけよ撫子の露(右:第2帖「帚木」夕顔)
山がつの垣ほに生ひし撫子の もとの根ざしを誰れか尋ねむ(左:第26帖「常夏」玉鬘)

『源氏物語』のなかで夕顔と玉鬘の母娘の絆を「撫子(なでしこ)」の花に込めた和歌です。
第4帖「夕顔」のなかで、紫式部は夕顔の花について次のように書いています。

『かの白く咲けるをなむ、夕顔と申しはべる。花の名は 人めきて、かうあやしき 垣根になむ咲きはべりける』 と夕顔の花のイメージを述べています。「花の名前は人のようで、このような粗末な家の垣根に咲いているもの」と表現しており、夕顔の隠れ住む家の周囲の気配から、両親を亡くした中流貴族の娘という身の上が偲ばれます。また、夕顔の花は高貴な貴族にとっては身近に見られない大変珍しい、神秘的なものでした。第4帖「夕顔」は、夕顔の花の神秘性によって展開されています。

右の歌は夕顔の詠んだ歌です。「撫子」に愛児を想起させる伝統的な常套表現です。我が子を可愛がって欲しいと来訪を促すものです。
左の歌は夕顔の娘、玉鬘の歌です。『山がつの垣ほに生ひし撫子の』と右の夕顔の歌を受けながら、源氏の詠んだ『撫子のとこなつかしき色を見ば もとの垣根を人や尋ねむ』に答えたものです。母の元を誰が尋ねましょうかと返したものです。
夕顔の平凡な歌と対比させることで、玉鬘の人となりが際立ってみえます。
玉鬘の歌は、古今和歌集にある『あな恋し今も見てしか山がつの 垣ほに咲ける大和撫子』(読人しらず)を踏まえているとされています。

玉鬘の歌での「撫子」は、紫式部が夕顔の花に込めたものと同じく山里の粗末な家の垣根に咲いているような花として捉えており、「撫子」の花によって母の身の上を伝えています。また、「山がつ」については、第4帖「夕顔」のなかで『物の情け知らぬやまがつも』と書いており、物の情趣もわからないという意味も込めていると思われます。
また、「撫子」の花に母の命の儚さを重ね、花の色香は移ろいやすく儚いものとも暗示しています。玉鬘は幼少で母を亡くしてから、都を離れて鄙(ひな)の地で暮らしてきたことに引け目を感じています。紫式部は、玉鬘を紫の上と同様な境遇に置きながら、内大臣となった頭中将の娘であり源氏の養女となっても、自分の身は取るに足らないもの、人数に入らないものと思う心情を「撫子」の花に込めたと思われます。玉鬘の歌からは、河原撫子の楚々と咲く花の風情が思われて思慮深く、謙虚な人柄が伝わってきます。

’Genji Monogatari Yugao&Tamakazura”

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玉鬘(たまかずら)

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和紙による河原撫子(かわらなでしこ)を白い扇子にあしらい、背景の和紙と取り合わせて源氏物語に登場する女性、玉鬘(たまかずら)をイメージしました。
玉鬘とは、『源氏物語』第2帖「帚木」(ははきぎ)での「雨夜の品定め」の物語において源氏の親友、頭中将( とうのちゅうじょう)が語った常夏(とこなつ)にたとえた女性との間に生まれた女君です。後に、源氏の養女として六条院の夏の町に迎えられ、花散里(はなちるさと)が後見となりました。常夏の女性とは第4帖「夕顔」に登場する女性、夕顔をさします。
「常夏」は、「撫子」の古名です。「撫子」は、万葉集にも詠まれてきた在来種の河原撫子で、中国から伝来した唐撫子(からなでしこ)に対して大和撫子とも呼ばれます。紫式部は、大和撫子と唐撫子の花の趣を使い分けて物語を展開しています。「帚木」のなかで、頭中将が『咲きまじる花は何れとわかねども なほ常夏にしくものぞなき』と艶やかな常夏の花にたとえ、夕顔を称えています。
物語では、常夏と対照的に撫子が捉えられています。撫子は、子を慈しむ心を象徴するものの他、物語では野辺の花に夕顔の身の上を託し、玉鬘と母娘の絆を表すものとなっています。
玉鬘は、撫子(なでしこ)にたとえられる女君として物語の中で位置付けられます。第2帖「帚木」の雨夜の品定めの物語中に夕顔と頭中将の間で愛児として「撫子」と呼ばれて登場します。
第26帖「常夏」では、大和撫子と唐撫子を取り混ぜて一面に配した情景の中で玉鬘の物語が繰り広げられています。「撫子」の物語の背景には夕顔が思い起されます。
玉鬘の名からは美しく、数奇な運命を背負った女性と読み取れますが、撫子と常夏の花の名に込められた特徴を併せ持った明るく可憐、謙虚な人柄が伝わってきます。

”Genjimonogatari Tamakazura”

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朝の色

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ふりすさぶあさけの雨のやみかたに 青葉涼しき風のいろかな(伏見院御集:伏見院)
Furi susabu asake no ame no yamikata ni aoba suzushiki kaze no iro kana
(fushiminoingyoshū:fushimi no in)

『朝色』という題で詠まれた夏の叙景歌。
雨上がりの早朝の清々しい空気感を色で捉えたところが清新に感じます。
雨を好んで詠んだ京極派を代表する歌人、伏見院の歌集『伏見院御集』の一首です。
雨水をたっぷりと含んだ瑞々しい青葉の輝きが、時間の推移によって鮮明になっていくのを感じます。動的な降り荒ぶ激しい雨の音が止んだあと、対照的な静謐さが際立って感じられて雨によって洗い清められた青葉を渡る風もいっそう爽やかに伝わってきます。
和歌を書いた短冊、背景の和紙、青楓の葉の取り合わせによって夏の景を表しました。

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「かへりこぬ」

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かへりこぬ昔を今と思ひ寝の 夢の枕ににほふ橘(新古今和歌集:式子内親王)
Kaheri konu mukashi wo ima to omohi ne no yume no makura ni nihofu tachibana
(Shinkokin Wakashū:syokushi naishinnou)

懐かしい思い出、昔の人を追憶させる橘の花の香。「かへりこぬ昔」に懐古の心情の強さが表されています。
式子内親王は、新古今時代を代表する歌人の一人です。後白河天皇の皇女で源平の戦乱の時代、和歌を藤原俊成に師事し、俊成の子の藤原定家とも親交がありました。
幼くして賀茂斎院となり10年ほど賀茂神社で奉仕され、病で斎院を退かれてからは和歌に心を寄せられました。政変に巻き込まれるなど心穏やかに暮らせない世にあって、芯の強さを持って独自の世界観を歌に詠みました。
式子内親王の優美で気品ある歌の内に秘めた想いが、橘の香から伝わってくる一首を書で表しました。

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花散里

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常緑の葉に永遠を象徴するものとして、想いを託されてきた橘。
初夏、青々と繁った葉の中に白い可憐な花が点在するように咲く橘は、夏の景物として親しまれてきました。
白い小さな花は目立つことなく、木々の影から漂う香によって存在に気づくものとして和歌に詠まれてきました。橘の花の香には、懐かしさ、心安らぐものを連想させる力があります。
また、橘というと『源氏物語』で夏の季節を象徴する女性として、六条院の夏の町に住む「花散里(はなちるさと)」が想い起されます。おおらかで、誠実な人柄を橘の花のイメージにたとえ、「花散里」という名に込めたと思われます。
「花散里」については、次の歌が引かれているとされています。

橘の花散る里のほととぎす 片恋しつつ鳴く日しそ多き (万葉集:大伴旅人)

大伴旅人が、亡妻を追慕して詠んだ歌です。橘の永続性と懐古の想い、現実の世の儚さが込められています。

『源氏物語』での橘の「花散る里」という表現からは、花が散ってしまっても樹の姿は年中変わることなく緑の葉を繁らせ、また翌年にはさりげなく香しい花を咲かせて心和ませてくれることを予感させてくれます。「花散里」の登場する場面では、誠実で変わることのない人柄の温かさが伝わってきます。橘の花に「花散里」のイメージを重ねてみました。

“Hanachirusato”

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夏雨

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夏草のみどり若葉雨をうけてなびく姿はみるも涼しき (後伏見院)
Natugusa no midori wakaba ame wo ukete nabiku sugata ha miru mo suzushiki (Gofushimi no in)

鎌倉時代後期、乾元二年(1303年)に行なわれた『仙洞五十番歌合』で「夏雨」という題で詠まれた一首を書で表しました。
爽やかな新緑の瑞々しさが心地よい、清新な印象の夏の叙景歌です。雨の音も清々しく聴こえてきて、夏草、新緑の青葉の鮮やかな色彩としなやかで流れるような動きも感じられます。自然の中で起こる現象を五感で捉え、心に従って詠んだ感動がまっすぐに伝わってきます。

平安末期~鎌倉時代初めの中世の始まりに、戦乱の世で西行は山懐に抱かれる世界に生きて自然観照の歌を詠み、藤原定家は戦乱の世とかけ離れた歌の世界で詞に磨きをかけ「新古今集」に昇華させていきました。
その後、藤原定家の子から孫へと和歌が継承されていくなかで、御子左家(二条家)、冷泉家、京極家の3つの流れに分かれ、歌壇は御子左家の二条派が主流となりました。「新古今集」以降、目新しさが見出せなくなった歌壇に新風を興したのが、藤原定家の曾孫にあたる京極為兼が中心となった京極派と呼ばれる流れです。

『仙洞五十番歌合』では、為兼を中心とした京極派の歌人によって「古今集」以来の勅撰和歌集の伝統に最後の輝きを放った「玉葉集」・「風雅集」の布石となる、斬新な視点を持った秀歌が多く生み出されました。「玉葉集」・「風雅集」は、「古今集」・「新古今集」が原点に立ち戻って「万葉集」を拠り所として新たな境地を開いていったように、同じく原点に立ち戻り「万葉集」に拠り所を求め、「心」を重視しました。
また、「玉葉集」・「風雅集」は、動乱が続いた不安定な時代背景があり、心の拠り所として自然を求めたていったことは自然観照を深めていった歌境に反映されています。

京極派の歌人の特徴として、雨を好んで詠じたことは「玉葉集」・「風雅集」によく顕れています。四季それぞれの季節を雨で表現し、他の勅撰集と比較して歌数が突出しています。
また、他の勅撰集と比較して季節によって歌数の差が大きくないのも、雨を四季を通じて観察し、自然観照を深化させていった表れと思います。

そのなかで、「玉葉集」・「風雅集」に「五月雨」とは独立した歌題として「夏雨」が配列されています。「玉葉集」では、「卯の花」「時鳥(ほととぎす)」の後、「風雅集」では「卯の花」の後と夏の初めに配列されています。「玉葉集」・「風雅集」に採られた歌数としては1~2首と少ないですが、長雨の「五月雨」の情趣とはっきりと区別し、初夏の情趣にこだわりを持って「夏雨」と季節の名を入れて題としたことは、「玉葉集」・「風雅集」夏部の歌題の配列が伝えています。

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春の隔て

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我が宿の垣根や春をへだつらむ夏来にけりと見ゆる卯の花 (拾遺和歌集:源順)
Waga yado no kakine ya haru wo hedatsu ramu natu kini keri to miyuru unohana
(Minamoto no Shitagou)

「卯の花」と呼ばれて親しまれてきたウツギ。ウツギは家の周囲との境に垣根として古代より植えられ、「卯の花」と「垣根」を組み合わせた歌は万葉集にもみられます。
古今集以降、夏の景物として位置付けられ、「卯の花」と「垣根」の組み合わせによる表現は受け継がれていきました。
画像は、「卯の花」の垣根を春と夏を隔てる境界として捉えた一首を書で表したものです。

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