植物と文学:Plant in the literature」カテゴリーアーカイブ

心づくしの秋

木の間より もりくる月のかげ見れば 心づくしの 秋は来にけり(古今和歌集:よみ人しらず)
Ko no ma yori mori kuru tsuki no kage mireba kokoro dukushi no aki ha ki ni keri (Kokin Wakashū:Yomibito sirazu)

木の間から洩れる月の光に秋の心情を感じ詠まれた一首。
『古今和歌集』秋上で、立秋、秋風、七夕歌に続き排列されています。一首の前後の排列から、初秋の月に秋の到来を強く印象付けていることが窺えます。

この一首は、「心づくしの秋」というところに、物思いの限りを尽くす季節をしみじみと感じさせます。初秋の月の光は、まだ木の間隠れに射しています。木の間を洩れる月の光は、秋が深くなり木の葉が色づき、落葉して遮るものがなく冴え冴えとした閑寂な冬へと向かうことを予感させます。微妙な季節の移ろいに心を働かせ、「心づくし」の季節と捉えたところに、秋の感傷がしみじみと呼び起こされます。

また、「心づくしの秋」という表現は、『源氏物語』第12帖「須磨」のなかで「須磨には、いとど心づくしの秋風に、海は少し遠けれど」という一節に引用され、名文として読者の心を捉えてきました。都から離れた須磨の地が、四季の中でもいっそう侘しいと感じさせます。

秋の感傷が心に沁み入る一首を書で表しました。

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見るままに

みるままに 露ぞこぼるゝ おくれにし 心も知らぬ なでしこの花( 後拾遺和歌集:上東門院 )
Miru mama ni tsuyu zo koboruru okure ni shi kokoro mo shiranu nadesiko no hana(GosyuiWakashū:Jyoutou monin)

撫子をみるにつけても涙がこぼれますと、父に死に別れた哀しみを知らず、無心に撫子の花を手にとった我が子への想いを詠んだ一首。

一首は、藤原道長の女(むすめ)、一条天皇中宮の彰子(しょうし)が詠んだものです。
彰子の夫、一条院が崩御された年、一首に詠まれた我が子、敦成親王(後一条院)は四歳でした。後に彰子は出家し、上東門院(じょうとうもんいん)となりました。

一首には、次のような詞書があります。

一条院うせ給ひてのち、なでしこの花の侍りけるを、後一条院幼くおはしまして、なに心もしらでとらせ給ひけれは、おぼしいづることやありけむ

とあり、幼い敦成親王が無心に撫子の花を手にとったところを見て、一条院のことを何かを思い出され、詠まれたことが記されています。

詞書にあるように、可憐な撫子の花に掛け、愛しい我が子を詠んでいます。愛らしい撫子の花に託し、一条院を偲ぶ哀感と我が子を慈しむ優しさが溢れています。彰子の文化サロンには、紫式部・赤染衛門・和泉式部・伊勢大輔・相模などの優れた才能が集い繁栄したのも、彰子の細やかな心配りと優しさによって支えられたものと思われます。

彰子の温かで誠実な人柄がしみじみと伝わってくる、一首を書で表しました。

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真葛原

真葛原(まくずはら)なびく秋風 吹くごとに 阿太(あだ)の大野の 萩の花散る(万葉集:未詳)

一面、葛に覆われた広い野原、真葛原(まくずはら)。葛の葉が、秋風に吹かれてさざ波のよう葉裏の白が動いてみえる光景は印象的です。真葛原の躍動感ある情景を和紙の色と繊維の強さを生かし、縮小して表しました。飾り台の大きさは、幅15cm、奥行き10cmです。

“Kudzu vine”

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源氏物語より「藤袴」

『源氏物語』第30帖「藤袴(ふじばかま)」より、巻名の由来となった藤袴の花と夕霧の歌を和紙による花と書で表したものです。

同じ野の 露にやつるゝ 藤袴 あはれはかけよ かごとばかりも ( 夕霧 )

夕霧(源氏と葵の上の子)は、実姉と思い慕っていた玉鬘(たまかずら)が従姉と知り、藤袴の花を持って玉鬘を訪れます。藤袴の花を御簾(みす)から差し入れながら、あなたと同じ野の露でしおれている藤袴に情けをかけて欲しいと歌を贈ります。

夕霧の一首は先ごろ亡くなった、祖母の大宮の喪に服しているところから、喪服の藤衣(ふじころも)の意味と、縁(ゆかり)を意味する紫の花色の意味をかけて、同じ祖母を持つ孫として藤袴に託し、慕情を訴えました。

それに対して玉鬘は、

たずぬるに はるけき野辺の 露ならば うす紫や かごとならまし ( 玉鬘 )

と切り返します。「かごと」とは口実という意味です。玉鬘は、あなたが尋ねても、遥か遠い野辺の露というのであれば、藤袴の薄紫の花色はたんなる言い訳なのでは、と夕霧の言い分を断ります。

中国原産の藤袴は、奈良時代には日本に渡来していたとされ、茎や葉に香気があることから、その香りを身につけるなど、尊ばれていました。その後の物語で、匂宮が好む花として、芳香を持つ藤袴への愛着が取り上げられています。

“Genji Monogatari no.30 Fujibakama”

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源氏物語より「野分」

『源氏物語』第28帖「野分(のわき)」のテーマを秋草によってイメージしたものです。野分とは、野を分けるほどの荒々しい風雨に見舞われる、台風のことをいいます。六条院の秋の町に暮らす、秋好(あきこのむ)中宮の庭は秋の草花が咲き乱れ、人々の目を楽しませていました。そんなある日のこと、例年になく激しい野分が襲来し、源氏の邸、六条院も荒らされます。

野分の見舞いに父源氏の邸、六条院を夕霧は訪れます。源氏と紫の上の暮らす春の町で、野分の激しい風により、偶然にも紫の上を垣間見ます。野分の荒ぶる激しさが、夕霧の心象風景として春の町の庭の荒れ果てた光景に表現されています。紫の上を象徴する優美な春の町の庭は、風で築山の木々が吹き倒れ、枝も何本も折れ、草むらはいうまでもなく、庭は雑然として変わり果てています。

野分が静まり、源氏の使者として夕霧は秋好中宮を見舞います。秋の町の御殿は落ち着きを取り戻し、童女らが庭に出て虫籠に露を入れている光景を遠目に見ます。その”あはれ”を誘う、優艶な光景に破綻することのない、冷静な夕霧の心が映し出されています。秋の町は、しみじみとした秋の情趣を漂わせています。

風に靡き、しなだれる風情に秋の情趣を感じる秋草より、薄・女郎花(おみなえし)・白萩・藤袴・葛を和紙で表したものを取り合わせ、秋草文様の友禅紙を手折った花入れにあしらいました。

“Genji Monogatari no.28 Nowaki”

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紫草

紫の ひともとゆゑに 武蔵野の 草はみながら あはれとぞ見る (古今和歌集:よみ人知らず)
Murasaki no hito moto yue ni musashino no kusa ha minagara ahare tozo miru (Kokin Wakashū:Yomibito sirazu)

紫とは、紫根(しこん)と呼ばれる根に紫色の色素成分を持ち、染料とされた紫草(むらさき)をいいます。紫草は夏季に白い花を咲かせます。花は小さく目立ちませんが、古の人は高貴を象徴する” むらさき”色の染料となり、その染料の美しさから紫草に心惹かれました。

一首は、紫草が一本あるために、紫草の生えている同じ武蔵野の草すべてが、ゆかりのあるものとして懐かしく、愛おしく思うと詠んだものです。紫草への愛着を詠んだところから発展し、愛しい女性を紫草に見立て、その女性とゆかりのある人、すべてが懐かしく思われると解釈されるようになり、定着しました。

また、武蔵野は古代から中世にかけて、京の人々が憧れをもって、和歌や物語に詠まれてきました。一首は、どこまでも続く原野のイメージを持った武蔵野を舞台にした心和む優しい物語を想像させます。

葉脈の筋がはっきりとした葉の上に、控えめに清楚な純白の花を咲かせる紫草を和紙で表したものを書と取り合わせ、武蔵野の原野に咲く光景を詠んだ一首をイメージしました。

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難波潟

難波潟 みじかき 蘆のふしのまも 逢はで この世を すぐしてよとや(新古今和歌集:伊勢)
Naniha gata mijikaki ashi no fushi no ma mo ahade kono yo wo sugushite yo to ya
(Shinkokin Wakashū:Ise)

難波潟に生い茂る蘆(アシ)の茎の節と節の間の短さほどの、ほんの短い時間でも逢うこともせず、むなしく過ごせとおっしゃるのですか、との想いを詠んだ一首。一首を詠んだ伊勢は、古今時代の代表的な女流歌人です。恋歌を私的な歌から公的な晴れの歌として発展させたことに貢献しました。

イネ科の多年草の蘆(アシ)は、葦、芦、葭という漢字でも表記されます。タケやアシなどの節と節の間を古語では「よ」と言い、一首では世と夜を掛けています。アシは、成長すると人の背丈よりも高くなる植物です。春先に芽吹いた若芽は、節と節の間が短く、成長するに従い長くなります。アシの草丈が高くなる特性から、”みじかき蘆”と節と節の間が極めて短いことを強調して表現したところに、時の短さが深く印象付けられます。

難波潟はアシの名所として『万葉集』の時代より、歌に詠まれてきました。水辺のアシの群生は、春の芽吹きの美しさ、夏の水辺の涼やかさ、晩秋から冬にかけて刈り取られた風景の寂しさなど季節によって表情を変化させます。
また、『万葉集』に遡ると難波の人が葦(アシ)を燃料として焚く家が煤(すす)けて古びることに喩え、常に変わることのない妻への愛情、ほのぼのとした家庭の温かさを想い起させる、「 難波人(なにはひと)葦火(あしひ)焚く屋の 煤(す)してあれど 己(おの)が妻こそ 常めづらしき 」(巻十一:よみ人知らず)が見られ、アシは詠む人の心によって、たおやかで多彩な表現を見せてくれます。

作者の心情を難波潟のアシのイメージによって、平明に伝えた一首を書で表しました。

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星合

あまの川 岩こす 波のたちゐつゝ秋のなぬかの けふをしぞまつ(後撰和歌集:よみ人しらず)
Amanogaha iha kosu nami no tachi i tsutsu aki no nanuka no kefu wo shi zo matsu (Gosen Wakashū:Yomibito shirazu)

七月七日を待つ想いを織女星の身となり、詠まれた一首。

年に一度、天の川を渡り、牽牛と織女が逢うという漢代の伝説が伝えられてより、数多くの歌人に詠まれてきた七夕。旧暦の七月七日の七夕は、星合(ほしあい)とも呼ばれました。中国では、川を渡るのは織姫ですが、日本の和歌では通い婚を背景として、その多くは彦星が川を渡ります。

『後撰和歌集』の一首では、立ったり座ったりという落ち着かない動作を「波のたちゐ」という言葉で表現し、じっとしていられない心境を伝えています。岩越す波の勢いにその切実さが表れ、七夕を待ち焦がる想いの深さを感じます。

七夕歌を書で表した料紙と同系色の継ぎ紙、画仙紙を取り合わせて天の川をイメージし、古歌の趣を表しました。

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玉柏

玉柏 しげりにけりな さみだれに はもりの神の しめはふるまで( 新古今和歌集:藤原基俊 )
Tamagashiha sigeri ni keri na samidare ni hamori no kami no shime hafuru made
(Shinkokin Wakashū:Fujiwara no Mototoshi)

降り続く五月雨を受け、青々とした葉を茂らせた見事な柏の木。柏に宿るという、葉守(はもり)の神がしめ縄を張っているかのようである。

一首を詠んだ、藤原基俊(ふじわらのもととし)は、平安末期の院政時代、源俊頼(みなもとのとしより)と並び、歌壇で活躍した歌人です。『古今和歌集』を重んじ、伝統的な歌風に特色があります。『新古今和歌集』の夏歌で、「田のしめ縄」を題材に田植えを詠んだ歌に続き、「五月雨」を歌題とした中に一首は排列されました。

「玉柏(たまがしは)」とは、柏の美称です。柏は、冬になっても枯葉が落葉しないことから、楢(なら)と共に葉守(はもり)の神が宿る神聖な樹木とされ、平安時代には柏の特性から、四季を通じて和歌や物語の題材として取り上げられました。

『枕草子』で清少納言は、柏について、次のように綴っています。

柏木、いとをかし。葉守(はもり)の神のいますらむも、かしこし。兵衛の督(ひょうえのかみ)、佐(すけ)、尉(ぞう)など言ふも、をかし。

柏の木は、風情があり、葉守(はもり)の神がおいでになる、畏れ多い木である。兵衛の督(ひょうえのかみ)、佐(すけ)、尉(ぞう)などの衛門府(えもんふ)の官職の雅称として柏木が用いられることは素晴らしく、興味深いと評しています。

「柏木」は、官職の雅称であることは、『源氏物語』の第36帖「柏木」の巻名からも窺えます。夕霧の親友、柏木の名は皇居を守護する衛門府(えもんふ)の長、衛門督(えもんのすけ)に就いていたことから、「柏木衛門督」と呼ばれたことに因みます。

基俊の一首は、「 ならの葉の 葉守の神の ましけるを 知らでぞ折りし 祟りなさるな 」(後撰和歌集:藤原仲平)、『源氏物語』で夕霧の親友、柏木の未亡人落葉の宮が夕霧への返歌として詠んだ、

柏木に 葉守の神は まさずとも 人ならすべき 宿の梢か ( 源氏物語「柏木」:落葉の宮 )

が本歌とされています。落葉の宮の詠んだ一首は、第36帖「柏木」の巻名の由来となっています。

基俊が詠んだ歌の詞書には、「雨中木繁といふ心」と題して詠まれたことが記されています。
基俊の一首は雨が降り続くなか、柏が梢に青葉を繁茂させた、薄暗く視界が遮られた景色を上の句で詠んでいます。下の句では、一転して柏にしめ縄が張られたかのように見立てることで、葉守(はもり)の神の宿る荘厳で深遠な景色を想像させます。

『源氏物語』のなかで紫式部が落葉の宮に詠ませたように、葉守(はもり)の神が不在であるかのように伝えつつ、しめ縄が張られていなくても葉守(はもり)の神は永遠に宿り続けると想わせる展開は、柏の存在感、生命感、神々しさを強く印象付けます。

梅雨の時季の寄せて、数々の和歌や物語を創造させてきた柏の神秘を詠んだ一首を和紙による柏の葉と書で表しました。

 

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よひらに洩る月

あぢさゐの 花のよひらに もる月を 影もさながら 折る身ともがな (散木奇歌集:源 俊頼)
Adisai no hana no yohira ni moru tsuki wo kage wo sanagara woru mi tomo gana (Sanbokukikaikashū:Minamoito no Toshiyori)

平安末期の歌人、源 俊頼(みなもとのとしより)の家集『散木奇歌集(さんぼくきかしゅう』にある一首です。歌の詞書には、「殿下にて夏夜の月をよめる」とあります。

月に照らされた紫陽花。その影も手折ることができたらばよいものを、と詠んだものです。紫陽花の装飾花が、4片から構成されているところから、”よひら” は紫陽花の異名ともなっています。紫陽花は、よひらの花びらと宵を掛け、夏の夜の情景に咲く花としてイメージされました。

一首の趣は、『万葉集』に2首みられる、花色が移ろうところから心変わりを詠んだもの、小さな花が数多く集まって咲くことから寿ぎを詠んだものとは異なります。
俊頼の一首は、源順(みなもとのしたごう)が編纂した辞典、『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)の成立以後に詠まれた歌です。『倭名類聚抄』(巻第二十 草木部)で「 白氏文集 律詩 云 紫陽花 和名 安豆佐為」という記述にあるように、『白氏文集』の「紫陽花詩」から和名のアジサイに「紫陽花」の名をあてた影響を受けていると思われます。

『白氏文集』については https://washicraft.com/archives/13026 「紫陽花詩」(2017/6/5)の記事 にて書きました。

『白氏文集』での紫陽花(しようか)は、神仙の世界から現実の世界へと降りてきた花としてイメージを展開しています。俊頼の紫陽花(あじさい)は、影となって現実の世界から手に入れることのできない世界の花へと展開しています。紫陽花が月の光に照らされることで、その花影に神聖なイメージをまとわせたと思われます。

俊頼の発想は、その後に続く崇徳天皇をはじめ、藤原俊成(ふじわらのとしなり)・藤原定家(ふじわらのさだいえ)などの歌人によって研究され、紫陽花が歌に詠まれました。
その一例として、藤原定家の一首に

あぢさゐの 下葉にすだく 蛍をば 四ひらの数の 添ふかとぞ見る (拾遺愚草:しゅういぐそう)

がみられます。紫陽花の下葉に蛍が飛び交い、発する光によって花数が増えたかのように見える幻想的な夏の夕景を詠んだものです。蛍の光によって、紫陽花は儚い神秘の花となっています。

俊頼が夏夜の月を題として詠んでいるように、定家の歌も蛍をテーマとした中に紫陽花は詠まれているのにとどまっています。このことは、鎌倉初期に順徳天皇が書きまとめられた歌論書『八雲御抄(やくもみしょう)』(巻第三・枝葉部)の中のなかで紫陽花について、「阿知佐井 万に、やへさくと云り。歌に難詠物也。」と評されているとおり、紫陽花を詠むことの難しさを示しています。

画像は、俊成や定家など中世を代表する歌人たちが、歌材として紫陽花に取り組む発端となった一首を書で表したものです。

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