植物と文学:Plant in the literature」カテゴリーアーカイブ

末葉の色

むしのねは 浅茅がもとに 埋もれて 秋は末葉の いろにぞありける(千載和歌集:寂蓮)
Mushi no ne ha asaji ga moto ni udumore te aki ha sueha no iro nizo arikeru
(Senzai Wakashū:Jakuren)

生い茂る浅茅に埋もれるように聞こえる虫の音に晩秋の想いを詠んだ一首。『千載和歌集』秋下で「虫」を歌題とした一群に排列されています。一首を詠んだ寂蓮(じゃくれん)は、『新古今和歌集』の撰者の一人でもあり、千載新古今時代を代表する歌人の一人です。

浅茅(背の低いちがや)は夏の間、線形の細葉を勢いよく伸ばし、銀白色の花穂をつけます。一面に広がる浅茅とその周辺から聞こえる虫の音が衰えゆく様子から、深まり行く秋の侘しさが伝わります。

上代では、鋭く細い葉の形状から邪気を払う神聖な植物として捉えられた茅は、平安時代になると秋風で色褪せるというイメージが強くなり、心変わりや過去を偲ぶもの、哀れを誘うものとして詠まれ、寂蓮の活躍した中世へと移り行く時代には褪せた浅茅の中に美を見出すようになります。

寂蓮の一首は秋が深まり、色褪せた浅茅の葉先の風情に虫の音を添え、しみじみとした晩秋の情感を詠みました。繊細な感性で秋の静寂感を詠まれた一首を書で表しました。

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むら雀

むらすずめ 声する竹に うつる日の 影こそ秋の 色になりぬれ (風雅和歌集:永福門院)
Mura suzume koe suru take ni uturu hi no kage koso aki no iro ni nari nure(Fuugawakashū:Eifukumonin)

雀の群れが静かな竹林を騒がす。その竹藪に射す光線に秋の気配を感じ、詠まれた一首。

一首を詠んだ永福門院(えいふくもんいん)は、京極派を代表する歌人の一人です。伏見天皇の中宮となり、伏見天皇が譲位によって伏見院となられたのに伴い、門院となられました。一首は『風雅和歌集』秋上で、「立秋」を題とした中に排列されています。

『風雅和歌集』は、鎌倉時代に『新古今和歌集』が成立して以降、歌壇に新風を興した京極為兼(きょうごくためかね)を中心とした京極派による勅撰和歌集です。為兼は、歌に詠まれる自然観照と人生観照を独立させ、純粋な叙景歌と抒情歌へと発展させました。
為兼の樹立した京極派の流れを継承した花園院の企画監修により、光厳院が撰者となって『風雅和歌集』は撰集されました。

清澄な山家を主題とした永福門院の一首は、特定の季物ではない「雀」と「竹」を題材に選び、「秋の色」という言葉で季節の移ろいを感覚的に表現されたところに京極派の特色が表れています。

夏の間、整然と青々茂る細葉が清涼感を伝えてきた竹林。その竹林に差し込む夕日の光線が和らいで感じられ、秋の気配を伝えます。静けさが漂う山里の竹林に雀のさえずる声と活発な動きによって素早く変化する影と、音なく緩やかな時間の推移によって変化する竹の影を聴覚と視覚、動と静の観点から対比して捉えることで竹林の閑寂さが際立ちます。

細やかに自然を凝視し、次第に薄れてゆく夕日の光を「秋の色」と捉え、夕景の感動を詠まれた一首を書で表しました。

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宮城野

あはれいかに くさばの露の こぼるらん 秋風たちぬ 宮城野のはら(新古今和歌集:西行)
Ahare ikani kusaba no tuyu no koboru ran akikaze tachi nu miyagino no hara
(Shinkokin Wakashū:Saigyou)

秋風が吹き始めた宮城野の原野。どれほどの草葉の露がこぼれているだろうかと秋到来を詠まれた一首。一首は、『新古今和歌集』秋歌上で立秋を歌題とした一群に排列されています。

古来より、萩の名所として歌に詠まれてきた陸奥国の歌枕、宮城野。宮城野を詠んだ一首は、西行が奥州の旅を終えた後、伊勢の内宮に自歌合(じかあわせ)『御裳濯河歌合』(みもすそがわうたあわせ)で奉納された一首です。

西行の一首は、宮城野が露の多い地として歌に詠まれる由来となった『古今和歌集』東歌、陸奥歌を本歌としています。

みさぶらひ みかさと申せ 宮城野の 木の下露は 雨にまされり (よみ人しらず)

秋の訪れを告げる萩や露を歌材に、古来より人々が心を寄せ、歌が詠み継がれてきた宮城野の原野を想い、旅愁と共に秋のしみじみとした情感を詠まれた一首を書で表しました。

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双葉葵

いかなれば その神山の あふひぐさ としはふれども ふた葉 なるらむ (新古今和歌集:小侍従)
Ikanare ba sono kamiyama no afuhi gusa toshi ha furedomo futaba naru ramu (Shinkokin Wakashū:Kojijyu)

『新古今和歌集』に撰集された一首の詞書には、「葵をよめる」とあります。一首を詠んだ小侍従は、平安末期~鎌倉初期に後鳥羽院の歌壇で活躍した女流歌人です。『新古今和歌集』夏部で「更衣」「卯の花」に続く「葵」のなかで式子内親王の「葵」を歌題として詠まれた一首に次いで排列されています。

「葵」を歌題としたものは『千載和歌集』夏部に2首みられます。源平の戦乱による都の荒廃を背景に藤原俊成(ふじわら の としなり)によって編纂された『千載和歌集』での「葵」2首は、院政期の歌壇で活躍した藤原基俊(ふじわら の もととし)が『堀川百首』で「葵」を歌題として詠まれた一首、賀茂の齋院に奉仕の後、俊成に師事した式子内親王の賀茂祭への懐古の想いを詠まれた一首がみられます。

あふひ草  てる日は神の こころかは かけさすかたに まつなひくらむ( 藤原基俊 )
神山の ふもとになれし  あふひ草  ひきわかれても 年そへにける  ( 式子内親王)

俊成が『千載和歌集』夏部の歌題として類例が少ない「葵」を採り上げた2首からは、都の初夏の風物、賀茂祭を象徴するものとして「葵」を捉えていたことが窺えます。俊成は紫式部が『源氏物語』第9帖「葵」で賀茂祭の壮麗さを伝えているとおり、貴族の祭りである賀茂祭を象徴する「葵」に都の栄華を託したように思います。

『千載和歌集』に次ぐ『新古今和歌集』での「葵」は、武家政権へと変革する時代にあっても王朝の雅を象徴する祭りが未来永劫、執り行われていくことを祈念する思いが込められているように思われます。小侍従の一首は葵草に寄せ、賀茂祭が行われる賀茂神社の背後にある神山に神が降臨された時から、永い年月を経ても葵草は今生えたばかりの双葉のままであると華麗な祭りが毎年行われることを讃えました。

また、『新古今和歌集』以降の勅撰和歌集の夏部をみると、新勅撰・続古今・新後撰・続後拾遺・風雅などの勅撰和歌集で歌数は少ないものの、「葵」を歌題とした歌が排列されており、都の夏の風物として賀茂祭の「葵」が歌題として定着したことを示していると思います。

茎の先に2つの葉を向かい合うようにつけた様は、生命力溢れる芽吹いた草の双葉の姿を思い起こします。現代の京都の賀茂祭でも社殿に葵が飾られ、祭りの奉仕者が葵を身に付けることから葵祭とも呼ばれています。初夏を告げる賀茂祭(葵祭)を象徴する双葉葵の生命感に寄せて詠まれた一首を和紙による双葉葵と書で表しました。

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