紙雛(かみひいな)を立体感のある色紙飾りにした一作。
桜柄と流水の図柄を取り合わせた衣裳と配色で雛の節句の季節感を伝えたいと思いました。
掛け軸には紅色と長春色の組み合わせのものを選び、同系色でまとめました。
(色紙:12×13.5cm)
”Hina Doll ”
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投稿者「ymatsu」のアーカイブ
蓮華に菜の花雛
2015年1月28日~2月3日の「雅な雛のつどい展」(日本橋三越本店新館8階ギャラリーアミューズ)に向けた江戸の花雛の一作。今回の雛展のタイトルにありますとおり、”雅”をテーマに江戸の花文化、琳派、泉鏡花の『雛がたり』から発想した花雛を中心に出展いたします。
「雅な雛のつどい展」の詳細は、こちらの記事( https://washicraft.com/archives/7082 )を参照ください。
本阿弥光悦・俵屋宗達に始まる「琳派」と呼ばれる系譜。「琳派」の流れの中でも、江戸後期の酒井抱一(さかいほういつ)、その弟子の鈴木其一(すずききいつ)をはじめ「江戸琳派」では上巳の節句に向けた紙雛(かみひいな)や正月飾り(蓬莱飾り)など年中行事を題材にした図を残しています。紙雛(かみひいな)とは、今の立雛の古語です。
紙雛は江戸琳派に限らず、京琳派の神坂雪佳(かみさかせっか)、京都で活躍した円山四条派の円山応挙(まるやまおうきょ)など多くの作家が描いています。
紙雛の意匠は、櫛(くし)や着物にもみられ、紙雛が広く親しまれ、流行していたことが窺えます。今も画題として受け継がれて、親しまれています。
上巳の節句に向けた花と紙を形代とした愛らしい花雛図も残されています。花雛は、紙雛の形式で蓮華(れんげ)や菜の花などを雛に見立てたものです。
蓮華は菜の花とともに春の野を彩る風物詩として親しまれていました。「琳派」では、小さくて愛らしい蓮華を蕨、土筆(つくし)、菫(すみれ)、蒲公英(たんぽぽ)などと共によく描いています。蓮華と菜の花の取り合わせは、桃と菜の花の配色に似て、ピンクと黄色の花色が春らしく、優しさを感じます。また、蓮華と菜の花を取り合わせは、長閑な田園風景を想起させてくれます。
紙雛(立雛)をシンプルに省略した素朴な姿に花を取り合わせた花雛は、季節を愉しむ心と節句を祝う心が詩情豊かに表されており、春の暖気が伝わってきます。簡素な中にも春の華やいだ雰囲気が漂い、雅な風情を感じます。
画像の作品は、江戸の花雛からイメージしたものを友禅紙、能千代紙など和紙によって紙雛の形式で立体的に表したものです。江戸の紙雛図では今のように2通りの並び方がみられます。画像の作品は、江戸の花雛を意識して酒井抱一や鈴木其一などにみられる女雛を向かって右に配置してみたものです。形代には、油菜(あぶらな)と蓮華(れんげ)を板締和紙で表しました。
衣裳の図柄は向い鶴に亀甲と砂子を取り合わせて吉祥を込めました。
作品の高さは、蓮華雛が15cmほどです。
なお、1月21日(水)から2月2日(月)まで日本橋三越本店新館7階ギャラリーでは、「岡田美術館所蔵琳派名品展 ~知られざる名作初公開~ 」が開催されます。
岡田美術館 http://www.okada-museum.com/information/archives/427
日本橋三越本店 http://mitsukoshi.mistore.jp/store/nihombashi/index.html
春のしるし
春の到来を告げる早蕨。早蕨は、春を告げる証として古より受け継がれてきました。
『源氏物語』第48帖「早蕨」からは、万葉集の志貴皇子(しきのみこ)の歌が連想されます。
いはばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(万葉集:志貴皇子)
Iha bashiru tarumi no ue no sawarabi no moe iduru haru ni nari ni keru kamo (Manyoushū:Shikinomiko)
勢いよく水が流れる滝のほとりの爽やかさと、「春のなりにけるかも」という詞がきっぱりとしていて、”春が来た”という感動がいきいきと伝わってきます。
『源氏物語』第48帖「早蕨」で、山寺の阿闍梨(あじゃり)が土筆(つくし)や蕨を神仏や主君にささげる初穂として中君に贈ったことが書かれています。初物の蕨が神聖な供物として扱われていたことが読み取れます。
蕨や土筆、芹(せり)などを献上して食する行事を「供若菜(わかなをぐうす)」といい、若菜を摘んで災厄を祓う風習が宮中の儀式となり、美しい籠や折櫃(おりびつ)に入れられて献上されました。
早蕨については、『源氏物語』の第46帖「椎本(しいがもと)」にも書かれています。
君がをる峰の蕨と見ましかば 知られやせまし春のしるしも (源氏物語:大君)
第48帖「早蕨」にも登場する山寺の阿闍梨(あじゃり)から土筆(つくし)や蕨が初穂として中君、大君姉妹のもとに届きました。届けられた蕨を見て、姉の大君が ” 亡き父が摘んだ蕨としてみることができましたら、春を知らせてくれるしるしとなりますものを ” と詠んだ歌です。この歌から、紫式部は早蕨を「春の証」と捉えています。
紫式部が芽吹いたばかりの蕨の美しさに注目したところは、志貴皇子が詠んだ歌の心を受け継いでいるように思いました。
万葉集の時代、芽吹きの美というと柳に感じていました。万葉集の中でも「早蕨」は特異なものです。
蕨を詠んだものは万葉集ではこの歌のみで、「早蕨」という言葉の響きには”早春”という命が再生する瑞々しい季節感を印象付ける力が込められいて心惹かれます。
春の到来の歓びが清々しく伝わってきて、今も歌の心は受け継がれています。
平安時代には、「岩そそぐ垂氷のうへのさわらびの萌えいづる春になりにけるかな」という詞の形で古今和歌6帖や和漢朗詠集に載せられました。神聖で、春の到来を告げる証として紫式部は巻名を「早蕨」としたと考えられます。志貴皇子の歌は、「岩そそぐ垂氷のうへのさわらびの萌えいづる春になりにけるかな」という形で新古今和歌集にも選ればれており、後世の琳派にも受け継がれていると思われます。
平明で力強い詞の響きを書で表しました。料紙には素朴な味わいの和紙を選びました。
“Sawarabi”
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早蕨
徳川幕府の成立によって270年近く泰平の時代が続き、園芸への関心が高まって花文化が栄えた江戸時代。その背景には王朝文化への憧れがありました。
王朝文化への憧れ、王朝文化の復興は書画や工芸などさまざまな分野に影響を及ぼしました。なかでも、王朝文化の復興に力を注ぎ、新たな命を吹き込んで独創的な表現、創造性を広げた本阿弥光悦・俵屋宗達に始まる「琳派」と呼ばれる系譜があります。
今年、本阿弥光悦が徳川幕府から鷹峯の地を拝領し400年になります。
「琳派」では、『伊勢物語』、『源氏物語』、『新古今和歌集』などから取材されることが多く、詩歌や物語など古典文学と密接に関わってきました。
琳派では蒲公英(たんぼぼ)、土筆(つくし)、蕨(わらび)、蓮華(れんげ)、菫(すみれ)、菜の花など春の野草をよく描いています。尾形光琳をはじめ、神坂 雪佳(かみさか せっか)に至るまで、琳派の流れの中で受け継がれてきた題材です。春の野草を横並びに配した構図からは、泉鏡花の『雛がたり』で花雛が横並びに飾られている光景が想起されます。
また、土筆や蕨というと『源氏物語』第48帖「早蕨」を連想します。
春の光が降り注ぐ季節になっても姉の大君を亡くした悲しみで心が深く沈んでいた中君のもとに、山寺の阿闍梨(あじゃり)から蕨や土筆が風情のある籠に入れられて例年とおり届き、慰められます。前年は姉と蕨や土筆を愉しみました。
阿闍梨の心遣いに中君は「この春はたれにか見せむなき人のかたみにつめる峰の早蕨」と返歌を贈りました。阿闍梨の優しい心に触れて何よりも温かく、清々しい心地になりました。土筆や蕨からは、早春の香りが伝わってきます。
早蕨(さわらび)とは芽を出したばかりの蕨をいいます。
山寺の阿闍梨が贈ってくれた蕨や土筆からは生命感溢れる春の野の情景が思い起され、琳派の画題に受け継がれているように思います。
画像の作品は、『源氏物語』第48帖「早蕨」よりイメージしたものを書と和紙による蕨と土筆で表したものです。
“Genji Monogatari no.48 Sawarabi”
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謹賀新年
桜橘に寄せて
江戸幕府が定めた五節句が廃止され、暦も旧暦から新暦に変わった明治6年。この年を境に春の花を飾って祝う上巳の節句も変化していきました。
明治6年に生まれた泉鏡花が、『雛がたり』で記憶した上巳の節句は6歳から7歳頃とあるので、明治10年代頃のこと。江戸時代の町家での節句の面影を偲ぶことができます。『雛がたり』の書き出しを見ると、桜雛以下の花雛を除けば、今も形として残されており古の姿を見ることができます。
雛(ひな)-女夫雛(めおとびな)は言うもさらなり。桜雛(さくらびな)、柳雛(やなぎびな)、花菜の雛(はななのひな)、桃の花雛(もものはなびな)、白と緋(ひ)と、紫(ゆかり)の色の菫雛(すみれびな)。鄙(ひな)には、つくし、鼓草(たんぽぽ)の雛。相合傘(あいあいがさ)の春雨雛(はるさめびな)。小波(ささなみ)軽く袖(そで)で漕こぐ浅妻船(あさづまぶね)の調(しらべ)の雛。五人囃子(ごにんばやし)、官女(かんじょ)たち。ただあの狆(ちん)ひきというのだけは形も品しなもなくもがな。紙雛(かみひいな)、島(しま)の雛、豆雛(まめひいな)、いちもん雛(びな)と数うるさえ、しおらしく可懐(なつかし)い。
花雛に続く、変わり雛。時代の世相を表した変わり雛は、今も受け継がれています。
『雛がたり』では、雛についてをひな・びな・ひいなと3つの読み方を使い分け、雛の形式によって読み方の違いがあることも伝えています。古語の「ひいな」という呼び方を紙雛、豆雛に使っており、この時代にはひいなという呼び方が残っていたことも読み取れます。
愛らしい雛道具に続き、屏風、雪洞の様子が書かれています。
一双(いっそう)の屏風(びょうぶ)の絵は、むら消えの雪の小松に丹頂(たんちょう)の鶴、雛鶴(ひなづる)。一つは曲水(きょくすい)の群青(ぐんじょう)に桃の盃(さかずき)、絵雪洞(えぼんぼり)、桃のような灯(ひ)を点(とも)す。
屏風絵は鶴を描いたものと曲水の宴が描かれています。左右対になって一組になった屏風を「一双」と数えます。
民間では3月3日は雛の節句ですが、宮中では曲水の宴が催されました。
桃の盃に、桃のような雪洞の灯。ここで、上巳の節句は、桃の節句であることが伝わってきます。
ここには桜橘は見えません。
『雛がたり』の書き出しは、今から見ると不可思議に見えます。
それは、書き出しにある花雛が桜橘のようにすぐにはイメージできないからです。
花雛の花はすべて生きた花なのか、造り花も混じっているのか、現実のものか、幻想のものも含まれているのか、謎は深まります。ただ、花雛は存在したことは確かで、花雛の並び順に深い意味を込め、花それぞれの持っているものから緻密に構想されていて感銘を受けました。
今では絵画や文芸の中でしか味わうことができない世界のように思えてきます。
いくとおりの可能性があり、それぞれの植物に込められた背景があります。
改暦された明治6年(1873年)から140年ほど経ちました。
近世から近代へと移り変わる過程で欠落してしまった部分を『雛がたり』は細やかに伝えています。
最近、桜橘に代わって紅白梅の造り花を雛飾りに添えた雛人形を多く見かけます。
住環境も変わり、シンプルに飾る傾向になってきました。梅は今の暦の節句では季節が合い、すっきりと落ち着いた印象で、今の時代の好みを反映しています。
和紙を素材とした雛は古来の姿、シンプルな表現、季節感を伝えることができると思います。
時代の変化を受け入れながら、雛を飾って祝う伝統が続くことを願っています。
『雛がたり』については来年、引き続き形にしてまいります。
今年も和紙による作品をご覧いただきありがとうございました。
ブログサービスの突然の終了により、新たな気持ちでブログを立ち上げ直すきっかけになりました。ブログ移転後も継続してブログをご覧いただき、支えていただいた皆様には心より御礼申し上げます。
来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
「星月夜」
月をこそながめなれしか 星の夜の深きあはれを今宵知りぬる
(建礼門院右京大夫集:建礼門院右京大夫)
Tuki wo koso nagame nare sika hosi no yoru no fukaki ahare wo koyohi siri nuru
(kenreimoninukyounodaifusyu:kenreimoninukyounodaifu)
この歌には長い詞書があります。
十二月一日ごろなりしやらむ、夜に入りて、雨とも雪ともなくうち散りて、村雲騒がしく、ひとへに曇りはてぬものから、むらむら星うち消えしたり。引き被(かつ)き臥(ふ)したる衣(きぬ)を、更けぬるほど、丑二つばかりにやと思ふほどに、引き退(の)けて、空を見上げたれば、ことに晴れて、浅葱色(あさぎいろ)なるに、光ことごとしき星の大きなるが、むらもなく出でたる、なのめならずおもしろくて、花の紙に、箔をうち散らしたるによう似たり。今宵初めて見そめたる心地す。先々も星月夜見なれたることなれど、これは折からにや、ことなる心地するにつけても、ただ物のみ覚ゆ。
12月1日頃のこと。夜のうちは天候は悪かったものの、午前2時半ごろにはすっかり晴れて星空が一面に広がっています。
いままで月にしみじみとした情趣を感じ心動かされてきたが、美しい星空と出逢い、星空にも深く”あはれ”を誘うものがあることに気づいた感動が伝わってきます。
美しい星空を「箔をうち散らしたるによう似たり」と紙に箔を散らした様に捉えたところは、平安時代に歌を書くために趣向を凝らした料紙を思いました。
花の紙とは、花色の紙をいいます。花色はツユクサの花色に由来します。薄青色の縹色(はなだいろ)。縹色は花田色(はなだいろ)とも表記され、花田色が省略されて花色と呼ばれました。
箔が散らされたかな料紙を使い、星月夜を想い書で表しました。
花うさぎ雛
桜、桃、菜の花といっせいに花開く長閑な春。
桜と菜の花をうさぎの形の坐雛(すわりびな)に見立て表しました。
衣裳には青海波(せいがいは)に桜をあしらった、春の穏やかさと静かな波が永続する様に吉祥を込めた図柄を選びました。
作品の高さは、女雛が10cmほどです。
“Hina Doll”
山桜雛(やまざくらびな)

古代より日本の山野に自生している山桜を形代とした雛。
旧暦の弥生(3月)は、新暦では3月下旬から5月上旬。
かつて上巳の節句は桜、桃、菜の花が咲き揃う季節に行われていました。
江戸幕府が定めた五節句の式日が明治6年に廃止され、暦も旧暦(陰暦)から新暦(太陽暦)に変わりました。
季節の植物と節句は切り離せないものです。今は桃や菜の花は雛祭りに合わせて出荷されていますが、路地の花には季節のずれを感じます。
明治6年に生まれた泉鏡花。明治6年は、旧暦から新暦へと時代が大きく変わった年です。
月によって時刻を知り、季節を知る暦としていた時代では、月の満ち欠けに情趣を感じ、月の光を光源として暮らしてきました。改暦は、人の暮らし方を変えていきました。
『雛がたり』で鏡花が幼少の頃、上巳の節句が行われていた時期を「北の国の三月は、まだ雪が消えないから、節句は四月にしたらしい」と書いています。『雛がたり』が発表された大正時代には新暦が普及していたことが窺えます。
春の花を飾って祝う上巳の節句にとって、旧暦から新暦へと制度の変更の影響は大きかったと思います。
上巳の節句は桃の節句とも呼ばれるように、桃は江戸時代の終わりには200に及ぶ品種があったと伝えられています。明治に入ると品種の数は大きく減り、今は八重咲きの「矢口」や、紅白の咲き分けの「源平」など選ばれた品種が受け継がれています。
華やかな花桃が見頃を迎えるのは今の暦では3月下旬。
上巳の節句は子供の成長を祝う伝統行事として残りましたが、旧暦から新暦へと移り変わる過渡期、節句の祝い方は混乱したと思われます。
促成栽培のものが容易に手に入る今とは違い、寂しいものだったのではないでしょうか。
御所の左近の桜、右近の橘を象徴する雛飾りの桜橘。
桜橘の造り花が季節を演出するものとして欠かせないものになっていったのには、こうした事情が背景にあると推察されます。
桜橘の造り花は、御所風の雅な佇まいを伝えるとともに春から夏へと季節の移り変わりも伝えています。
江戸琳派で画題とされたような雅な花雛を見かけなくなったのには、暦と花期が合わなくなったことのほか、『源氏物語』をはじめ古典文学とのつながり、改暦によって人と自然の関わり方が変化していったことが背景にあると『雛がたり』から感じます。
『雛がたり』は『源氏物語』を想起させると同時に雛祭りが桜の季節に行われていたことを印象付けています。
『雛がたり』の終わりに『源氏物語』の第8帖「花宴(はなのえん)」が引かれています。第8帖「花宴」は、宮中の紫宸殿にあった左近の桜の宴が巻名になっています。
左近の桜の下、花の宴が華麗な宮廷行事として催されていたことが物語から偲ばれます。
『雛がたり』と『源氏物語』に寄せて、2つの作品に共通する桜の花への想いを山桜の精を雛の形にしたもので表現しました。
実生の山桜は樹齢が長く、優美な姿の内に生命力の強さ、神々しさを持っています。
花と同時に開く葉色の色合い、薄い花色、控えめな佇まいに気品を感じます。
女雛を八重山桜、男雛を一重の茶芽の山桜で表しました。
衣裳には樹皮を漉き込んだ簡素な風合いの和紙を選びました。
桜の花には透明感のある薄い色合いと柔らかな質感の和紙を使い表情を出しました。
作品の高さは、女雛が9cmほどです。
クリスマスリース
ヒイラギの深い緑色とシロタエギクの銀白色の取り合わせによるクリスマスリース。
粉を吹いたような風合いとふっくらとした質感に特徴があるシロタエギクを板締和紙の微細な色の変化で表現しました。
ヒイラギの葉も単色ではなく、濃淡のある板締和紙の特質を生かしました。
紙紐を植物の蔓に見立てリース状にまとめたものを土台にして素朴な味わいを出したいと思いました。
リボンには、金色の揉み紙を使い立体感を出しました。
(直径:11cm)
“Christmas Wreath”









