植物と文学:Plant in the literature」カテゴリーアーカイブ

あさがほの花

asagao-izumi-

ありとてもたのむべきかは世の中を 知らする物は朝がほの花(後拾遺和歌集:和泉式部)
Ari tote mo tanomu beki kaha yononaka wo shirasuru mono ha asagaho no hana
(GosyuiWakashū:Izumisikibu)

人の世のはかなさを朝顔の花に寄せて詠まれた和泉式部の一首。和泉式部は、平安中期、紫式部と同時代に活躍した女流歌人です。”はかなさ”をテーマに詠んだ和泉式部が、「はかない花」、「無常感をイメージする花」として「あさがほ」に心を託したものです。
『後拾遺和歌集』には、秋部(上)に排列されています。「あさがほをよめる」との歌の詞書があり、「朝顔」を歌題としていることを伝えています。「朝顔」を題材としたものは和泉式部の一首のみが撰ばれています。「あさがほ」を無常感をイメージする花として表現したのは、前時代の勅撰和歌集の秋歌にはみられないものです。

「朝顔」は、「立秋」から始まる『後拾遺和歌集』秋部(上)のなかでは終盤に位置しており、「女郎花(おみなえし)」と「秋風」の歌題の間に排列されています。和泉式部の歌を挟み、前後に排列されているのは次の2首です。

よそにのみ みつつはゆかし女郎花 をらむ袂(たもと)は 露にぬるとも 
いとどしく なぐさめがたき夕暮に 秋とおぼゆる 風ぞ吹くなる

上記の2首は和泉式部と親交があったとされる、源 道済(みなもとのみちなり)の歌です。道済は、後拾遺集を代表する歌人の一人です。道済の歌の心を受けた趣向の排列から、和泉式部の詠んだ「朝顔」は、秋の”あはれ”を誘う情趣を印象付ける花として認識されていたことが窺えます。

「朝顔」は『万葉集』では、山上憶良(やまのうえのおくら)の歌がよく知られています。

秋の野に 咲きたる花を  指折り(およびをり)  かき数ふれば  七種(ななくさ)の花
  萩の花 尾花葛花 撫子の花  女郎花 また藤袴  朝貌(あさがお)の花

秋の七草とされる花の一つに挙げられた憶良の朝顔は、桔梗、木槿、昼顔など諸説あり、そのなかで桔梗が有力とされています。現代に朝顔と呼ばれている花は、遣唐使によって伝えられたとされています。和泉式部の「朝顔」は、現代の朝顔とされるものなのか、木槿をいうのか、桔梗をいうのか未詳ですが、ここでの「あさがほ」は、儚い花の持つ気品、優美さを感じます。
歌に詠まれた「あさがほ」のイメージを書で表しました。

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露の玉づさ

tuyu-no tamadusa

たなばたのとわたる舟のかぢの葉に いく秋かきつ露の玉づさ(新古今和歌集:藤原俊成)
Tanabata no to wataru fune no kadi no ha ni iku aki kakitsu tsuyu no
tama dusa (Shinkokin Wakashū:Fujiwara no Toshinari)

七夕の天の川を渡る舟の梶を梶の葉と掛けて、「 秋が来るたびに露が儚くこぼれ落ちていくように叶うことのない想いを梶の葉に何度、書き続けてきたことか 」と詠んだ一首です。玉づさとは、手紙の古語です。歌の中では、想いが叶うようにと祈願した願文をいいます。

この一首は、『後拾遺和歌集』の上総乳母(かずさのうば)の「天の川とわたる舟のかぢの葉に 思ふことをも書きつくるかな」を本歌としています。『後拾遺和歌集』は、古今・後撰・拾遺に続く第四番目に編纂された勅撰和歌集です。和泉式部、相模・赤染衛門などの女流歌人の活躍が色濃く反映されたところに特色があります。

旧暦での七夕は、今の新暦では8月。2016年は、8月9日にあたります。
『新古今和歌集』では、秋歌の上に配列されています。秋部の巻頭は、初秋の心を秋の初風によって感じる立秋を歌題とした歌から始まります。風に感じた秋の到来から更に進み、秋風を歌題に風によって草葉に置く露がこぼれる様を捉え、”あはれ”を誘う歌へと展開されます。次に続くのが、七夕の歌題です。『古今和歌集』以来、勅撰和歌集の秋部の中での七夕は秋風・秋月などと並んで歌数が多く、秋部を構成する主要なテーマのひとつとして受け継がれてきました。『新古今和歌集』以降もその流れは受け継がれています。

『新古今和歌集』での七夕を詠んだ歌は15首撰ばれており、その構成は、古今時代に紀貫之(きのつらゆき)が屏風歌として詠んだ一首、『万葉集』より撰集された山部赤人(やまべのあかひと)の一首から始まり、七夕を和歌に詠んできた伝統を伝えています。『万葉集』には数多くの七夕の歌がみられます。中国から伝来した七夕伝説は、万葉時代の人々の共感を呼び、心を捉えていたことが窺えます。

そのなかで、藤原俊成(ふじわらのとしなり)の歌は8番目と中程に配列されています。
俊成の一首は、本歌とは全く異次元の独自な視点と広がりがあります。「露の玉づさ」と美しい言葉で表現した結句は、哀れを深く誘います。儚く過ぎて行った年月に古来より七夕に託してきた人々の想いを投影させ、掬い取った深さ、心の厚みを感じます。

七夕に寄せ、俊成の一首を書で表しました。

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風の便り

kaze-no-tayori

涼しやと風の便りを尋ぬれば 茂みになびく野べのさゆりば (風雅和歌集:式子内親王)

Suzushiya to kaze no tayori wo tadunure ba shigemi ni nabiku nobe no sayuri ba
(Fuugawakashū:shokushi naishinnou)

『風雅和歌集』の夏歌のなかで、蛍の歌題に次いで配列された夏草を歌題とした一首。
夏は”涼しさ”を基調とした歌が好まれました。夏の”涼しさ”は、視覚・聴覚・触覚などを水・風・木陰・月などの自然事象と取り合わせて詠まれました。

式子内親王の歌は、風の届けてくれた涼やかな花の香りを辿っていく先に、夏草が生い茂った野辺に百合のひっそりと咲く姿が見出される展開が見事です。

”風の便り”を触覚・嗅覚・視覚によって多面的に捉えて緩やかな時間の流れを伝えています。百合の楚々とした草姿、夏の清風に心安らぎます。

さやさやとした微かな風の流れる音を感じる一首を料紙に野辺に茂る草を線描で表し、歌を書で表しました。

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夏木立

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夏木立くもるゆふへのそらにこそ 青葉の色は猶まさりけれ(伏見院御集:伏見院)
Natsu ko dachi kumoru yufube no sora ni koso aoba no iro ha naho masari kere
(fushiminoingyoshū:fushimi no in)

『新樹』と題して詠まれた一首。
新緑の美しさを暮色のなかに見出した京極派の代表歌人、伏見院の御歌です。
”夏木立”の初句に純粋な新緑美の感動と清新なものを求められた伏見院の御心を感じます。

新緑の青葉を陽光に照らされた時間帯ではなく、夕暮れの曇った薄明の中で捉えたところに光線の変化に対して敏感な感性を持って表現した京極派の特色が表れています。ハーフトーンのなかで眺めることで視点を一点に集中させ、新緑を鮮やかに際立たせたところに伏見院の御歌風が表れています。清爽なものが心に残る一首を書で表しました。

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あやめ草

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うちしめり あやめぞかをる 時鳥(ほととぎす) 鳴くや五月(さつき)の 雨の夕ぐれ
(新古今和歌集:藤原良経)
Uchi shimeri ayame zo kaworu hototogisu nakuya satsuki no ame no yufugure
(Shinkokin Wakashū:Fujiwara no Yoshitsune)

五月の節供の頃、軒端に菖蒲が飾られている雨の夕暮れの景色を詠んだもの。『新古今和歌集』の巻頭に撰ばれた一首を詠んだ、藤原良経(ふじわらのよしつね)による歌です。旧暦での五月、端午の節供の頃は五月雨の季節。節供には、軒に菖蒲の葉と共に蓬をさして邪気を祓う、軒菖蒲が飾られています。

この歌は、「ほととぎす なくやさ月の あやめぐさ 菖蒲も知らぬ 恋もするかな」(古今和歌集:よみ人しらず)を本歌としています。

ほととぎすは、夏の景物として古今和歌集以来夏部の伝統的な歌題とされてきました。あやめ草や橘の咲く頃に山から人里にやって来て、また花の終わる頃に山に帰っていくところから、その声を聞くのを待ち望み、懐かしさや恋しい想いが託されてきました。端午の節供の頃、ほととぎすは人里近くにおり、その美しい声を近くでよく聞くことができました。
良経は本歌を踏まえ、ほととぎすの声を季節の草の香と共に味わうことで、より清澄なものへと高めています。ほととぎすの美しい声に聞き入る良経の自然に対する真摯さ、心の持ち方がよく現われています。

夕暮れ時、五月雨に濡れた葉菖蒲はしっとりとしてたおやかで香気を感じます。部屋の中は仄かな菖蒲の香に包まれており、清々しさが心に残ります。気品と余情を感じる一首を書で表しました。

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入日

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沈みはつる入日の際にあらはれぬ かすめる山の猶奥の峰(風雅和歌集:京極為兼)
Shizumi hatsuru irihi no kiha ni arahare nu kasumeru yama nonaho oku no mine
(Fuugawakashū:Kyougoku Tamekane)

沈もうとしている夕日の残光によって、霞んでいた山のさらに奥の峰までもが、くっきりと現われてみえます。室町時代初めに成立した『風雅和歌集』では、春歌上で春霞を歌題としたなかに配列された一首です。

『古今和歌集』以来、『風雅和歌集』が唯一、春部が秋部より優勢となっており、春部を構成する歌の中に風雅時代の特性や価値観が反映されていることが窺えます。そのなかにあって、京極派の歌風を打ち立てた為兼らしい、実景の観照によって鋭く入日の際を捉えた一首が撰集されました。

春霞に包まれた山々が暮色に染まる頃、日が山のかなたに沈もうとしている瞬間、今まではっきりとしなかったものが現われた感動が伝わってきます。伝統的な春霞を題材にして詠まれていますが、山に花は見えません。連なる山々と刻々と変化する残光に集中し、自然の懐の広さを表現したところに作者の独自性が現われています。

春の夕暮れを詠んだ歌でありながら、前時代のような妖艶で華やいだものはなく、閑寂で静謐さが漂っています。中世の幽玄から、近世の侘び・寂びへと美意識の変化の表れを感じます。

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色変えて

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雪とのみ桜は散れるこのしたに色かへて咲く山吹の花(玉葉和歌集:二条為世)
Yuki to no mi sakura ha chireru ko no shita ni iro kahete saku yamabuki no hana
(Gyokuyouwakashū:Nijyou Tameyo)

深まり行く春。白雪のように桜の花びらの散り敷いた景色から視線を移した先にある山吹の花によって、明るく華やいだ季節の到来を伝えています。『玉葉和歌集』(春下)に撰集されている一首です。

この一首を詠んだ二条為世(にじょうためよ)は、藤原俊成(ふじわらのとしなり)より藤原定家(ふじわらのさだいえ)、藤原為家(ふじわらのためいえ)と受け継がれてきた御子左家(みこひだりけ)の嫡流として鎌倉後期から南北朝時代にかけて活躍した歌人です。
二条家を背負う為世は、祖父や父から歌道を受け継ぎ、伝統的な歌風を守り伝えました。為世の祖父にあたる為家の子は、二条・京極・冷泉の三家に分立して対立し、為世の時代も対立が続いていました。

『玉葉和歌集』が撰定された時代、為世は京極家の為兼と撰定を巡って激しく対立しました。対立の末、『玉葉和歌集』は為兼が撰者となり、為兼主導で撰定されました。為兼を中心とした、京極派の和歌は二条家が受け継いでいる伝統的な本歌取りや枕詞・縁語・掛詞などの旧来の修辞法に捉われず、”心のままに詠む”ことを理想としました。また、為兼は感情と融合して詠まれることが多かった自然を、感情を加えず純粋に自然観照して歌に詠むことを目指しました。

『玉葉和歌集』の撰集にあたっても為兼の思想が反映されています。
刻々と変化する光や風、雨、雲、霧、霞などの自然事象のなかに『古今和歌集』以来の伝統的な題材を鮮明に捉えることで、和歌に奥行と広がりを出した京極派の歌風は、『玉葉和歌集』にもその特異性が現われています。自然を大観して流動美を見出した京極派の和歌は、動的といっても急激な変化ではなく、情調が損なわれないような緩やかな変化を五感によってに捉えて詠じました。

為世とは対立関係にあった為兼ですが、『玉葉和歌集』にあたっては公正な歌の評価によって撰集した姿勢が現われています。為世と為兼の曾祖父にあたる藤原定家は69首と第一位の伏見院の93首に次ぐ入集となっています。為世と為兼の祖父にあたるた為家は51首、為世の父にあたる為氏は16首、為世は10首撰ばれています。
 
そうした背景から為兼が撰んだ一首として為世の歌をみてみると、”色かへて咲く”という句によって、色彩の対比による鮮明な印象とゆったりとした時間の推移を表現したところに玉葉風の清新さを見出したことが窺えます。

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山吹

yamabuki-16-

春、鮮やかな黄色の花色で辺りを明るく照らす山吹。
鮮明な黄色の染色と黄緑色の和紙の柔らかさで花の風情を表しました。
『源氏物語』(第24帖 胡蝶)では、六条院の春の町で池のほとりに咲く山吹が岸から咲きこぼれ、池の底まで咲いているかのようにみえる景色が想い起されます。水色の継ぎ紙を敷き紙に使い、水辺を彩る風情を表しました。

”Japanese kerria”

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遅桜

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風にもるゝ青葉かくれのをそ桜 のこるとなしの色ぞさびしき(伏見院御集:伏見院)

”遅桜”と題して詠まれた一首。京極派を代表する歌人、伏見院の歌集『伏見院御集』に所載されている御歌です。名残の桜を風と青葉の爽やかさのなかに捉えたところに清新な印象があります。
葉桜の時季。青葉の影に隠れている名残の花の風情を和紙の桜で表しました。
“The remaining flower”

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入相

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梢より落ちくる花ものどかにて 霞ぞおもき入相の声(風雅和歌集:花園院)
Kozue yori ochi kuru hana mo nodoka nite kasumi zo omoki iriahi no koe
(Fuugawakashū:Hanazono no in)

霞の立つ春の夕暮れの情趣を梢から落ちてくる花と日暮れを告げる入相の鐘の音によって詠まれた一首。
『風雅和歌集』の監修をされた花園院の御歌です。花園院は、実景に基づいた純粋な自然観照歌を詠んだ京極派を代表する歌人です。
『風雅和歌集』は、室町時代の初め、南北朝の対立があった時代を背景に編纂された勅撰和歌集です。『古今和歌集』の時代では自然を理知的に表現し、『新古今和歌集』の時代では自然を象徴的に表しました。『風雅和歌集』が編纂された乱世の時代、無常を感じることが強く、禅の思想が浸透した時代でもあり、現実を直視して自然を捉えて表現しました。
花園院の一首は、春の薄暮を視覚だけでは捉えることのできないしっとりとした空気感を、鐘の音が霞に包まれて籠もったように聴こえる聴覚で表現し、水墨画のようなモノトーンの景色を想起させます。モノトーンの景色のなかで、梢から落ちる花は時間が止まったかのようにゆったりとしてみえます。心穏やかな境地を感じる一首を短冊の書と和紙の桜で表現しました。

”Sunset of spring”

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