植物と文学:Plant in the literature」カテゴリーアーカイブ

ゆふがほの花

yugao-16-2

しら露の なさけおきける ことのはや ほのぼのみえし ゆふがほの花(新古今和歌集:藤原頼実)
Sira tsuyu no nasake oki keru koto no ha ya honobono mieshi yugaho no hana
(Shinkokin Wakashū:Fujiwara no yorizane)

『源氏物語』第4帖「夕顔」の中で、光源氏の乗った牛車が京の五条あたりにさしかかった折、白い花が咲く家に目が留まり、黄昏時にその花を一枝所望したところ、花を添えた扇にしたためられていた夕顔の

 心あてに それかとぞ見る 白露の 光そえたる 夕顔の花

の歌を受けての源氏の返歌、

 よりてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔

を本歌として夕顔の「心あてに」の歌を心に置き、源氏の心境になって創作されたものです。

本歌の「黄昏時で、はっきりとみえなかったので、近寄って花のようなお顔を拝見したいものです」を踏まえ、「白露の光によってぼんやりとした夕顔の花の人が情けのある言葉をかけてくれた」と詠んだものです。
この歌を詠んだ、藤原頼実(ふじわらのよりざね)は、平安末期から鎌倉初期の歌人で『新古今和歌集』では、前太政大臣と記されています。後鳥羽院の院政にも関わりました。

『新古今和歌集』の夏歌に撰集され、頼実の歌の前には、同じく『源氏物語』第4帖「夕顔」で夕顔の詠んだ「心あてに」の歌を本歌として詠んだ高倉院の御歌、

 白露の 玉もてゆへる ませのうちに 光さへそふ とこなつの花

が置かれています。『源氏物語』第2帖「帚木(ははきぎ)」で頭中将が「常夏(とこなつ)」という呼び名で語った夕顔の人柄やエピソードが想い起されます。頼実の歌は発展性は乏しいですが、高倉院の御歌と対をなした趣向になっており、『源氏物語』の世界が広がります。

頼実の歌の次には、式子内親王の「たそがれの」で始まる歌が排列されています。”黄昏”は、夕顔の異名でもあり、夕顔の花と夕顔の君が想起される言葉です。一連の歌は、『新古今和歌集』では「夏暮」と分類される夏歌の歌題で秋歌へと繋がり、秋の気配を感じる位置に置かれています。

歌の題材としての「夕顔」は、詠まれたものは少なく、新古今以前の勅撰和歌集にはみられないものです。『源氏物語』を想起させるテーマとして夕顔が詠まれたことが背景となっているところから、勅撰集に撰集されたと考えます。
単に夕顔に託して儚さを詠み、『源氏物語』を想起させるイメージに繋がらないものであったならば、撰集されることはなかったはずです。
このことは、新古今時代には『源氏物語』が創作に大きな力を及ぼす存在となっていたことを示しています。その流れは、和歌にとどまらず、後世に多岐にわたって多くの作品を生み出していく源になりました。

『源氏物語』第4帖「夕顔」の巻を高倉院・頼実・式子内親王の3首の排列によって「帚木」の巻とのつながりをさりげなく想起させて、一連の優美な排列美によって伝えているところに、新古今の特色である象徴性が打ち出されていると感じます。

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村


夕顔に寄せて

yugao16

ウリ科のつる性の一年草、ユウガオ。夕顔に寄せて、清少納言は『枕草子』の中で次のように綴っています。

夕顏は朝顏に似て、いひつづけたるもをかしかりぬべき花のすがたにて、にくき實のありさまこそいとくちをしけれ。などてさはた生ひ出でけん。ぬかつきなどいふもののやうにだにあれかし。されどなほ夕顏といふ名ばかりはをかし。

清少納言の見立てによれば、ユウガオと朝顔の花は、花の形状がよく似ている記しています。清少納言は、朝顔と夕顔の花を対比させて、朝顔と夕顔を一対にして呼ぶのがふさわしいとしています。朝顔も夕顔も儚さを想う花です。
ユウガオについては、可憐な花からみて、瓢箪のような形の大きな実をつけるところが釣り合わずに残念に思われ、「ぬかつき」の実ほどの大きさであればよいのにと評しています。実のつき方からは、朝顔の雅なイメージに対してユウガオのイメージは、鄙びた簡素な印象が感じられます。「ぬかつき」とは、ほおずきの古語です。ユウガオの花の大きさとの釣り合いからみて、ほおずきの実のような愛らしさが程よいと評したところに清少納言らしい美意識が感じられます。されど、”夕顔”という名には風情があり、心惹かれるものがあるとしています。

『源氏物語』第4帖「夕顔」の中で紫式部は、ユウガオの白い花の儚さ、神秘性、可憐さ、生育している環境、花の終わった後に実を残していく植物の一生を通して、夕顔と呼ばれる女性のイメージと重ね合わせて表現しています。可憐な花を咲かせる夕顔が立派な実を残すところからは、夕顔の残した遺児、玉鬘の存在が心に留まります。

清少納言、紫式部それぞれのユウガオの捉え方の違いには、個性がよく表れています。また、紫式部も夕顔と朝顔を対比させるように『源氏物語』第20帖「朝顔」で、紫の上よりも高貴な身分の朝顔の姫君の物語を展開しています。朝顔の巻では、垣根にまつわりついて、あるかなきかのように色が移ろった朝顔を我が身にたとえて詠んだ朝顔の姫君の歌が想い起されます。朝顔と夕顔を対比させていることで、朝顔と夕顔の持っているイメージに託された女性たちの性格や背景の違いが鮮明になり、物語の奥深さを感じます。

画像は、夕顔の花を純白の柔らかな花をしぼ(皺)のある和紙の質感によって表し、扇子にあしらったものです。

“Moonflower”

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村


蓮の浮葉

hasu-ukiha

池さむき 蓮のうき葉に 露はゐぬ 野辺に色なる 玉や敷くらん (初度百首:式子内親王)
Ike samuki hasu no ukiha ni tsuyu ha inu nobe ni iro naru tama ya shiku ran(Syodo hyakusyu: Shokushi naisinnou)

正治二年(1200年)の後鳥羽院主催による正治初度百首(しょうじしょどひゃくしゅ)にある一首です。蓮の葉の上に置く露が涼しさを呼ぶと詠まれてきた先例を踏まえ、池の涼感を「池さむき」と詠んだところに式子内親王の独創性を感じます。

「露」というと秋の季節の歌材で、”はかなさ”を伝えるものとして草葉に置く姿を秋風と取り合わせてよく詠まれてきました。

夏の露は、次に訪れる秋の情趣を連想させて、夏の暑さを和らげて涼感を誘います。夏の露は、清浄さを象徴する蓮の葉と取り合わせられました。
池を覆うように浮く蓮の葉は「うき葉」と呼ばれ、夏の風物として歌に詠まれてきました。蓮の清らかなイメージと露の純粋美は、清涼感と同時に心を清らかにします。

式子内親王の歌では、夏の水辺の冷気が、秋の寒気を呼び起こします。蓮の葉に置く透明で、きらきらと輝く露は蓮の葉から消えた後、野辺を覆い、草葉を秋色に染め上げていきます。季節の移ろいに託した心の内を露によって象徴的に表現しています。

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村


萩の上露

minori-aki-s

おくと見る ほどぞはかなき ともすれば 風にみだるヽ 萩のうは露(源氏物語:紫の上)
Oku to miru hodo zo hakanaki tomo sureba kaze ni midaruru hagi no uha tuyu
(genjimonogatari:murasaki no ue)

『源氏物語』第40帖「御法(みのり)」で、秋の夕暮に病で衰えた紫の上が、源氏の見舞いの折に和歌を詠みかわした場面で詠まれた一首。
国宝「源氏物語絵巻」では、源氏が紫の上を見舞う場面で風の吹きすさぶ庭に植えられた秋草を眺めながら和歌を詠みかわした場面が描かれています。萩・桔梗・薄・女郎花(おみなえし)・藤袴(ふじばかま)などが野辺に咲いているかのように、庭に取り混ぜられて植えられており、雅な秋の野の美しさが想い起されます。
絵巻では、可憐な秋草が風にしなう描写によって紫の上を失うことを暗示させているとともに、最愛の紫の上を失う源氏の心の内、紫の上の想い、紫の上に付き添う明石中宮の想いを伝えています。秋草は、人事を象徴的に表すものとして文学と関わってきました。

優美で彩り豊かな秋草。秋の七草に数えられている草花は、色や形、花の大きさの変化に富んでいます。秋草は、取り混ぜられることで互いに引き立て合います。
秋草のたおやかさが強調される秋風。秋草それぞれの描く線は、秋風によって乱れることで緊張感を伝えます。脆く、儚いものの持つ美しさを伝える露。露の美しさは、玉にたとえられます。露は、風によって跡形もなく消えゆくものです。
秋草の中でも露を宿した姿が優美な萩に寄せて詠まれた紫の上の最期の一首を書と描画によって表しました。

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村

Facebook にシェア

あさがほの花

asagao-izumi-

ありとてもたのむべきかは世の中を 知らする物は朝がほの花(後拾遺和歌集:和泉式部)
Ari tote mo tanomu beki kaha yononaka wo shirasuru mono ha asagaho no hana
(GosyuiWakashū:Izumisikibu)

人の世のはかなさを朝顔の花に寄せて詠まれた和泉式部の一首。和泉式部は、平安中期、紫式部と同時代に活躍した女流歌人です。”はかなさ”をテーマに詠んだ和泉式部が、「はかない花」、「無常感をイメージする花」として「あさがほ」に心を託したものです。
『後拾遺和歌集』には、秋部(上)に排列されています。「あさがほをよめる」との歌の詞書があり、「朝顔」を歌題としていることを伝えています。「朝顔」を題材としたものは和泉式部の一首のみが撰ばれています。「あさがほ」を無常感をイメージする花として表現したのは、前時代の勅撰和歌集の秋歌にはみられないものです。

「朝顔」は、「立秋」から始まる『後拾遺和歌集』秋部(上)のなかでは終盤に位置しており、「女郎花(おみなえし)」と「秋風」の歌題の間に排列されています。和泉式部の歌を挟み、前後に排列されているのは次の2首です。

よそにのみ みつつはゆかし女郎花 をらむ袂(たもと)は 露にぬるとも 
いとどしく なぐさめがたき夕暮に 秋とおぼゆる 風ぞ吹くなる

上記の2首は和泉式部と親交があったとされる、源 道済(みなもとのみちなり)の歌です。道済は、後拾遺集を代表する歌人の一人です。道済の歌の心を受けた趣向の排列から、和泉式部の詠んだ「朝顔」は、秋の”あはれ”を誘う情趣を印象付ける花として認識されていたことが窺えます。

「朝顔」は『万葉集』では、山上憶良(やまのうえのおくら)の歌がよく知られています。

秋の野に 咲きたる花を  指折り(およびをり)  かき数ふれば  七種(ななくさ)の花
  萩の花 尾花葛花 撫子の花  女郎花 また藤袴  朝貌(あさがお)の花

秋の七草とされる花の一つに挙げられた憶良の朝顔は、桔梗、木槿、昼顔など諸説あり、そのなかで桔梗が有力とされています。現代に朝顔と呼ばれている花は、遣唐使によって伝えられたとされています。和泉式部の「朝顔」は、現代の朝顔とされるものなのか、木槿をいうのか、桔梗をいうのか未詳ですが、ここでの「あさがほ」は、儚い花の持つ気品、優美さを感じます。
歌に詠まれた「あさがほ」のイメージを書で表しました。

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村


露の玉づさ

tuyu-no tamadusa

たなばたのとわたる舟のかぢの葉に いく秋かきつ露の玉づさ(新古今和歌集:藤原俊成)
Tanabata no to wataru fune no kadi no ha ni iku aki kakitsu tsuyu no
tama dusa (Shinkokin Wakashū:Fujiwara no Toshinari)

七夕の天の川を渡る舟の梶を梶の葉と掛けて、「 秋が来るたびに露が儚くこぼれ落ちていくように叶うことのない想いを梶の葉に何度、書き続けてきたことか 」と詠んだ一首です。玉づさとは、手紙の古語です。歌の中では、想いが叶うようにと祈願した願文をいいます。

この一首は、『後拾遺和歌集』の上総乳母(かずさのうば)の「天の川とわたる舟のかぢの葉に 思ふことをも書きつくるかな」を本歌としています。『後拾遺和歌集』は、古今・後撰・拾遺に続く第四番目に編纂された勅撰和歌集です。和泉式部、相模・赤染衛門などの女流歌人の活躍が色濃く反映されたところに特色があります。

旧暦での七夕は、今の新暦では8月。2016年は、8月9日にあたります。
『新古今和歌集』では、秋歌の上に配列されています。秋部の巻頭は、初秋の心を秋の初風によって感じる立秋を歌題とした歌から始まります。風に感じた秋の到来から更に進み、秋風を歌題に風によって草葉に置く露がこぼれる様を捉え、”あはれ”を誘う歌へと展開されます。次に続くのが、七夕の歌題です。『古今和歌集』以来、勅撰和歌集の秋部の中での七夕は秋風・秋月などと並んで歌数が多く、秋部を構成する主要なテーマのひとつとして受け継がれてきました。『新古今和歌集』以降もその流れは受け継がれています。

『新古今和歌集』での七夕を詠んだ歌は15首撰ばれており、その構成は、古今時代に紀貫之(きのつらゆき)が屏風歌として詠んだ一首、『万葉集』より撰集された山部赤人(やまべのあかひと)の一首から始まり、七夕を和歌に詠んできた伝統を伝えています。『万葉集』には数多くの七夕の歌がみられます。中国から伝来した七夕伝説は、万葉時代の人々の共感を呼び、心を捉えていたことが窺えます。

そのなかで、藤原俊成(ふじわらのとしなり)の歌は8番目と中程に配列されています。
俊成の一首は、本歌とは全く異次元の独自な視点と広がりがあります。「露の玉づさ」と美しい言葉で表現した結句は、哀れを深く誘います。儚く過ぎて行った年月に古来より七夕に託してきた人々の想いを投影させ、掬い取った深さ、心の厚みを感じます。

七夕に寄せ、俊成の一首を書で表しました。

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村


風の便り

kaze-no-tayori

涼しやと風の便りを尋ぬれば 茂みになびく野べのさゆりば (風雅和歌集:式子内親王)

Suzushiya to kaze no tayori wo tadunure ba shigemi ni nabiku nobe no sayuri ba
(Fuugawakashū:shokushi naishinnou)

『風雅和歌集』の夏歌のなかで、蛍の歌題に次いで配列された夏草を歌題とした一首。
夏は”涼しさ”を基調とした歌が好まれました。夏の”涼しさ”は、視覚・聴覚・触覚などを水・風・木陰・月などの自然事象と取り合わせて詠まれました。

式子内親王の歌は、風の届けてくれた涼やかな花の香りを辿っていく先に、夏草が生い茂った野辺に百合のひっそりと咲く姿が見出される展開が見事です。

”風の便り”を触覚・嗅覚・視覚によって多面的に捉えて緩やかな時間の流れを伝えています。百合の楚々とした草姿、夏の清風に心安らぎます。

さやさやとした微かな風の流れる音を感じる一首を料紙に野辺に茂る草を線描で表し、歌を書で表しました。

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村


夏木立

natsukodachi-

夏木立くもるゆふへのそらにこそ 青葉の色は猶まさりけれ(伏見院御集:伏見院)
Natsu ko dachi kumoru yufube no sora ni koso aoba no iro ha naho masari kere
(fushiminoingyoshū:fushimi no in)

『新樹』と題して詠まれた一首。
新緑の美しさを暮色のなかに見出した京極派の代表歌人、伏見院の御歌です。
”夏木立”の初句に純粋な新緑美の感動と清新なものを求められた伏見院の御心を感じます。

新緑の青葉を陽光に照らされた時間帯ではなく、夕暮れの曇った薄明の中で捉えたところに光線の変化に対して敏感な感性を持って表現した京極派の特色が表れています。ハーフトーンのなかで眺めることで視点を一点に集中させ、新緑を鮮やかに際立たせたところに伏見院の御歌風が表れています。清爽なものが心に残る一首を書で表しました。

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村


あやめ草

ayamegusa-1

うちしめり あやめぞかをる 時鳥(ほととぎす) 鳴くや五月(さつき)の 雨の夕ぐれ
(新古今和歌集:藤原良経)
Uchi shimeri ayame zo kaworu hototogisu nakuya satsuki no ame no yufugure
(Shinkokin Wakashū:Fujiwara no Yoshitsune)

五月の節供の頃、軒端に菖蒲が飾られている雨の夕暮れの景色を詠んだもの。『新古今和歌集』の巻頭に撰ばれた一首を詠んだ、藤原良経(ふじわらのよしつね)による歌です。旧暦での五月、端午の節供の頃は五月雨の季節。節供には、軒に菖蒲の葉と共に蓬をさして邪気を祓う、軒菖蒲が飾られています。

この歌は、「ほととぎす なくやさ月の あやめぐさ 菖蒲も知らぬ 恋もするかな」(古今和歌集:よみ人しらず)を本歌としています。

ほととぎすは、夏の景物として古今和歌集以来夏部の伝統的な歌題とされてきました。あやめ草や橘の咲く頃に山から人里にやって来て、また花の終わる頃に山に帰っていくところから、その声を聞くのを待ち望み、懐かしさや恋しい想いが託されてきました。端午の節供の頃、ほととぎすは人里近くにおり、その美しい声を近くでよく聞くことができました。
良経は本歌を踏まえ、ほととぎすの声を季節の草の香と共に味わうことで、より清澄なものへと高めています。ほととぎすの美しい声に聞き入る良経の自然に対する真摯さ、心の持ち方がよく現われています。

夕暮れ時、五月雨に濡れた葉菖蒲はしっとりとしてたおやかで香気を感じます。部屋の中は仄かな菖蒲の香に包まれており、清々しさが心に残ります。気品と余情を感じる一首を書で表しました。

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村


入日

irihi-16

沈みはつる入日の際にあらはれぬ かすめる山の猶奥の峰(風雅和歌集:京極為兼)
Shizumi hatsuru irihi no kiha ni arahare nu kasumeru yama nonaho oku no mine
(Fuugawakashū:Kyougoku Tamekane)

沈もうとしている夕日の残光によって、霞んでいた山のさらに奥の峰までもが、くっきりと現われてみえます。室町時代初めに成立した『風雅和歌集』では、春歌上で春霞を歌題としたなかに配列された一首です。

『古今和歌集』以来、『風雅和歌集』が唯一、春部が秋部より優勢となっており、春部を構成する歌の中に風雅時代の特性や価値観が反映されていることが窺えます。そのなかにあって、京極派の歌風を打ち立てた為兼らしい、実景の観照によって鋭く入日の際を捉えた一首が撰集されました。

春霞に包まれた山々が暮色に染まる頃、日が山のかなたに沈もうとしている瞬間、今まではっきりとしなかったものが現われた感動が伝わってきます。伝統的な春霞を題材にして詠まれていますが、山に花は見えません。連なる山々と刻々と変化する残光に集中し、自然の懐の広さを表現したところに作者の独自性が現われています。

春の夕暮れを詠んだ歌でありながら、前時代のような妖艶で華やいだものはなく、閑寂で静謐さが漂っています。中世の幽玄から、近世の侘び・寂びへと美意識の変化の表れを感じます。

にほんブログ村 美術ブログ 工芸へ
にほんブログ村