植物と文学:Plant in the literature」カテゴリーアーカイブ

春の夜

霞みゆく おぼろ月夜の 有明に ほのかにかをる 梅の下風 ( 御室五十首:藤原 有家 )
Kasumi yuku oboro dukiyo no ariake ni honoka ni kaworu ume no shita kaze
(FUjiwara no Ariie)

おぼろに霞む月が残っている夜が明ける頃、梅の花の下を吹く風がほのかに香りを伝えています。
『古今和歌集』以来、春の闇夜に香る梅を愛でた歌が多く詠まれてきました。「御室(おむろ)五十首」にある一首を詠んだ、藤原有家(ふじわらのありいえ)は、『新古今和歌集』の撰者の一人として新古今時代に活躍した歌人です。春の夜のおぼろに霞む月の風情が中世の美意識として好まれ、” 朧月夜 ”という歌の詞として確立した時代背景が現れた一首です。

『新古今和歌集』における ” 朧月夜 ” については、「朧月夜に想う 」(3)(2016年3月31日)https://washicraft.com/archives/10178の記事にて書きました。

この一首は、『新古今和歌集』には撰集されることはありませんでしたが、春の夜の美感を表現する題材として、ほのかな梅香を” 朧月夜 ” という詞を用いて表現したところに創意が現れていると思います。春のぼんやりとした風情は、余韻を感じさせてくれます。

春の闇夜に漂う梅の香は、辺り一面に漂う強いものではなく、風に乗って伝わってくる柔らかなものです。辺りを照らすおぼろな月の光の柔らかさは、風に乗って伝えられる梅の香りのほのかさを引き立てます。幻想的な夜の梅を詠んだ一首を書で表しました。

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枯野

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花をみし秋の嵯峨野の露の色も 枯葉の霜にかはる月影(藤原俊成卿女)
Hana wo mi shi aki no sagano no tsuyu no iro mo kareha no shimo ni kaharu tsuki kage (Fujiwara no toshinari kyou no musume)

色とりどりの秋草で目を愉しませてくれた嵯峨野。今は草葉が枯れ色となり、草葉に置かれていた美しい露も枯葉に置かれた霜に取って代わり、冴え冴えとした月の光が照らしています。
新古今時代を代表する女流歌人、俊成卿女(としなりきょうのむすめ)の一首です。秋の草花が千々に咲き乱れる花野の名所であった嵯峨野。今は枯野となった嵯峨野を草葉に置く霜と月の光の白一色で表現したところに寂寥感溢れる枯野を詠みつつも、清らかで優艶な情趣が感じられます。秋草に彩られた季節の余韻を感じる一首を書で表しました。

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十三夜

kurenotsuki

暮の秋 月の姿は足らねども 光は空に みちにけるかな(風雅和歌集:藤原顕輔)
Kure no aki tsuki no sugata ha tarane domo hikari ha sora ni michi ni keru kana(Fuugawakashū:Fujiwara no Akisuke)

晩秋の月は、満月には足りていないものの光は空に満ちていると平明に詠んだところに、仲秋の頃とは異なる澄みきった空気感が伝わり、月の光が冴えて感じられます。

一首を詠んだ藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)は、平安末期の歌人で崇徳院より勅撰集撰進の命を受け、『詞花和歌集』を撰進しました。
顕輔が秋の月を詠んだ歌として、『百人一首』に選ばれている

秋風にたなびく雲の絶え間より もれ出づる月の影のさやけさ(新古今和歌集:秋上)

が親しまれています。

「暮れの秋」の歌は、家集『左京大夫顕輔集(顕輔集)』にみられる歌で、『風雅和歌集』の秋歌下に排列されました。
『古今和歌集』から『風雅和歌集』に至るまで、秋部は一巻のもの、上下二巻のもの、上中下三巻のものがあります。上中下に分かれているものは、『後撰和歌集』と『風雅和歌集』に限られます。

『風雅和歌集』での伝統的な歌題として秋の「月」をみてみると、”仲秋”にあたる秋歌中の巻末と”晩秋”にあたる秋歌下の巻頭につながりを持って排列されています。”仲秋”にあたる秋歌中のなかで、「八月十五夜」を詠まれたことを記した詞書が添えられた歌は伏見院の御歌が一首みられます。

”晩秋”にあたる秋歌下は「十三夜(後月)」を歌題とした三首から始まります。その巻頭に顕輔の「暮れの秋」の歌が置かれました。
秋歌下に入集した三首すべて、「九月十三夜」に詠まれたものであることを示す詞書が添えられており、『風雅和歌集』が日本固有の十三夜の月を重視していたことが窺えます。
また、「十三夜(後月)」に続くのが、「有明月」となっており、月をひとつながりの大きなテーマとして構成し、先例とは異なる視点を持って展開しています。 

中世では、九月十三夜の月見の宴の歌会や歌合が盛んでした。その先駆けとして、平安末期に藤原俊成(ふじわらのとしなり)が撰者となった『千載和歌集』の秋下で、「虫」を歌題とした歌に続き「九月十三夜」を詠んだ詞書が添えられた歌がみられます。

『風雅和歌集』では、顕輔の「暮れの秋」を初句とした歌によって秋歌下の巻頭を飾ることで、月の情趣によって四季の中でも変化に富み、季節の移ろいに最も敏感になる秋を初秋・仲秋・晩秋の3つに分け、はっきりと区別して伝えようとした意図が感じられます。
『風雅和歌集』の独自性を伝統的な歌題の排列によって示した一首を書で表しました。

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秋雨

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庭のむしはなきとまりぬる雨の夜の かべに音するきりぎりすかな(風雅和歌集:京極為兼)
Niha no mushi ha naki tomari nuru ame no yo no kabe ni oto suru kirigirisu kana
(Fuugawakashū:Kyougoku Tamekane)

庭の虫が雨で鳴き止んだ秋の夜。壁の辺りからひっそりとコオロギの鳴く声が聴こえます。キリギリスは、コオロギの古語で秋の夜長を実感する風物として詠まれてきました。
『風雅和歌集』では、秋歌中の部で初雁を詠んだ歌に始まる「雁」を歌題とした歌に続き、「虫」を歌題とした中に排列されています。歌の詞書には、

伏見院の御時、六帖の題にて人々歌詠ませさせ給まひけるに、秋雨を

とあり、秋雨の季節を詠んだ歌であることを示しています。

為兼の歌は、外界の雨音から内界の虫の音に気づく手掛かりとして”壁”を境界として音を聞き分け、表現したところに京極派らしさを感じます。庭の景観の広がりから視点を傍らの壁に移し、気づいたコオロギの声が心に深く染み入ります。しとしとと秋雨の降る夜の静寂さが、暗闇から聴こえてくるコオロギの澄み切った声によって一層極まって感じられます。

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音せぬ荻

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吹き捨てゝ 過ぎぬる風の 名残まで 音せぬ荻も 秋ぞ悲しき(風雅和歌集:京極為兼)
Fuki sute te suginuru kaze no nagori made oto senu ogi mo aki zo kanashiki (Fuugawakashū:Kyougoku Tamekane)

風にそよぐ葉に秋の気配を感じると詠まれたきた荻(おぎ)。京極為兼(きょうごくためかね)は、先例とは異なる独自な視点で秋を捉えました。為兼は、中世の時代を背景に、純粋な自然観照歌を目指しました。

風に身を委ねていた荻が、風がぴたりと止み、すっと立っています。微動だにしない瞬間、荻の様に風の名残を感じ、静寂さのなかにこそ秋のしみじみとした情趣があると詠みました。静止した荻を「音せぬ荻」と表現し、視覚と聴覚によって秋の静けさを感覚的に印象付けています。対象を凝視し、心を出発点として自然を捉えようとした京極派の為兼らしさが現れています。

音を立てていた風が止み、荻のそよぎが止まった瞬間の動から静への鮮明な対比は、墨の陰影によって表現された墨絵のような世界を感じさせ、幽寂な情趣がいっそう深く漂って感じられます。為兼は、物悲しく思われる秋の静寂さの中に閑寂の美を見出しました。

枯淡で静寂な世界に憧れを持っていた風雅集時代の趣向が反映された一首を書で表しました。

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穂にいでぬ秋

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たそがれの 軒端の荻に ともすれば ほにいでぬ秋ぞ したに事とふ(新古今和歌集:式子内親王)
Tasogare no nokiba no ogi ni tomosureba ho ni idenu aki zo shita ni koto tofu
(Shinkokin Wakashū:syokushi naishinnou)

夏から秋へと季節の移ろいを軒端の荻の「穂にいでぬ秋」という詞で伝えた歌。黄昏時、荻の様子からは、秋は表には現れていないものの、秋の訪れを心に感じると詠まれたところに清新さを感じる式子内親王の一首です。
荻は、イネ科の植物で、秋に薄と似た銀白色の花穂を出します。草丈の高い荻が次第に秋の風情を醸し出し、秋風にそよぐ姿が浮かびます。

式子内親王の一首は『新古今和歌集』の夏歌の中では、高倉院・藤原頼実(ふじわらのよりざね)に続き配置され、その背景として『源氏物語』第2帖「帚木(ははきぎ)」の巻とのつながりを想起させながら第4帖「夕顔」の巻をイメージさせる排列となっていると「ゆうがほの花」(2016/8/14)の記事で書きました。

この歌の初句「たそがれの」は、第4帖「夕顔」の巻が想起され、「軒端の荻に」という第二句は、第3帖「空蝉(うつせみ)」に登場した空蝉の継娘、軒端荻(のきばのおぎ)が想起されます。
軒端荻という名は、「ほのかにも軒端の荻を結ばずは露のかことを何にかけまし」と「夕顔」の巻での源氏が軒端荻に贈った歌に由来します。紫式部は、軒端荻と年齢では同じくらいである空蝉と対比させ、その人となりを荻にたとえました。第4帖「夕顔」の巻では、軒端荻のその後についても書かれています。「夕顔」の巻では、軒端荻と源氏は直に会うことはなく、文のやり取りのみが書かれています。

式子内親王の「たそがれの」の歌が『新古今和歌集』の夏歌で、高倉院・藤原頼実の歌を受けて排列されたことで、『源氏物語』の第2帖「帚木」・第3帖「空蝉」・第4帖「夕顔」が繋がります。このことは、3つの巻が一括りとなった物語となっていることを示していると思われます。

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ゆふがほの花

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しら露の なさけおきける ことのはや ほのぼのみえし ゆふがほの花(新古今和歌集:藤原頼実)
Sira tsuyu no nasake oki keru koto no ha ya honobono mieshi yugaho no hana
(Shinkokin Wakashū:Fujiwara no yorizane)

『源氏物語』第4帖「夕顔」の中で、光源氏の乗った牛車が京の五条あたりにさしかかった折、白い花が咲く家に目が留まり、黄昏時にその花を一枝所望したところ、花を添えた扇にしたためられていた夕顔の

 心あてに それかとぞ見る 白露の 光そえたる 夕顔の花

の歌を受けての源氏の返歌、

 よりてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔

を本歌として夕顔の「心あてに」の歌を心に置き、源氏の心境になって創作されたものです。

本歌の「黄昏時で、はっきりとみえなかったので、近寄って花のようなお顔を拝見したいものです」を踏まえ、「白露の光によってぼんやりとした夕顔の花の人が情けのある言葉をかけてくれた」と詠んだものです。
この歌を詠んだ、藤原頼実(ふじわらのよりざね)は、平安末期から鎌倉初期の歌人で『新古今和歌集』では、前太政大臣と記されています。後鳥羽院の院政にも関わりました。

『新古今和歌集』の夏歌に撰集され、頼実の歌の前には、同じく『源氏物語』第4帖「夕顔」で夕顔の詠んだ「心あてに」の歌を本歌として詠んだ高倉院の御歌、

 白露の 玉もてゆへる ませのうちに 光さへそふ とこなつの花

が置かれています。『源氏物語』第2帖「帚木(ははきぎ)」で頭中将が「常夏(とこなつ)」という呼び名で語った夕顔の人柄やエピソードが想い起されます。頼実の歌は発展性は乏しいですが、高倉院の御歌と対をなした趣向になっており、『源氏物語』の世界が広がります。

頼実の歌の次には、式子内親王の「たそがれの」で始まる歌が排列されています。”黄昏”は、夕顔の異名でもあり、夕顔の花と夕顔の君が想起される言葉です。一連の歌は、『新古今和歌集』では「夏暮」と分類される夏歌の歌題で秋歌へと繋がり、秋の気配を感じる位置に置かれています。

歌の題材としての「夕顔」は、詠まれたものは少なく、新古今以前の勅撰和歌集にはみられないものです。『源氏物語』を想起させるテーマとして夕顔が詠まれたことが背景となっているところから、勅撰集に撰集されたと考えます。
単に夕顔に託して儚さを詠み、『源氏物語』を想起させるイメージに繋がらないものであったならば、撰集されることはなかったはずです。
このことは、新古今時代には『源氏物語』が創作に大きな力を及ぼす存在となっていたことを示しています。その流れは、和歌にとどまらず、後世に多岐にわたって多くの作品を生み出していく源になりました。

『源氏物語』第4帖「夕顔」の巻を高倉院・頼実・式子内親王の3首の排列によって「帚木」の巻とのつながりをさりげなく想起させて、一連の優美な排列美によって伝えているところに、新古今の特色である象徴性が打ち出されていると感じます。

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夕顔に寄せて

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ウリ科のつる性の一年草、ユウガオ。夕顔に寄せて、清少納言は『枕草子』の中で次のように綴っています。

夕顏は朝顏に似て、いひつづけたるもをかしかりぬべき花のすがたにて、にくき實のありさまこそいとくちをしけれ。などてさはた生ひ出でけん。ぬかつきなどいふもののやうにだにあれかし。されどなほ夕顏といふ名ばかりはをかし。

清少納言の見立てによれば、ユウガオと朝顔の花は、花の形状がよく似ている記しています。清少納言は、朝顔と夕顔の花を対比させて、朝顔と夕顔を一対にして呼ぶのがふさわしいとしています。朝顔も夕顔も儚さを想う花です。
ユウガオについては、可憐な花からみて、瓢箪のような形の大きな実をつけるところが釣り合わずに残念に思われ、「ぬかつき」の実ほどの大きさであればよいのにと評しています。実のつき方からは、朝顔の雅なイメージに対してユウガオのイメージは、鄙びた簡素な印象が感じられます。「ぬかつき」とは、ほおずきの古語です。ユウガオの花の大きさとの釣り合いからみて、ほおずきの実のような愛らしさが程よいと評したところに清少納言らしい美意識が感じられます。されど、”夕顔”という名には風情があり、心惹かれるものがあるとしています。

『源氏物語』第4帖「夕顔」の中で紫式部は、ユウガオの白い花の儚さ、神秘性、可憐さ、生育している環境、花の終わった後に実を残していく植物の一生を通して、夕顔と呼ばれる女性のイメージと重ね合わせて表現しています。可憐な花を咲かせる夕顔が立派な実を残すところからは、夕顔の残した遺児、玉鬘の存在が心に留まります。

清少納言、紫式部それぞれのユウガオの捉え方の違いには、個性がよく表れています。また、紫式部も夕顔と朝顔を対比させるように『源氏物語』第20帖「朝顔」で、紫の上よりも高貴な身分の朝顔の姫君の物語を展開しています。朝顔の巻では、垣根にまつわりついて、あるかなきかのように色が移ろった朝顔を我が身にたとえて詠んだ朝顔の姫君の歌が想い起されます。朝顔と夕顔を対比させていることで、朝顔と夕顔の持っているイメージに託された女性たちの性格や背景の違いが鮮明になり、物語の奥深さを感じます。

画像は、夕顔の花を純白の柔らかな花をしぼ(皺)のある和紙の質感によって表し、扇子にあしらったものです。

“Moonflower”

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蓮の浮葉

hasu-ukiha

池さむき 蓮のうき葉に 露はゐぬ 野辺に色なる 玉や敷くらん (初度百首:式子内親王)
Ike samuki hasu no ukiha ni tsuyu ha inu nobe ni iro naru tama ya shiku ran(Syodo hyakusyu: Shokushi naisinnou)

正治二年(1200年)の後鳥羽院主催による正治初度百首(しょうじしょどひゃくしゅ)にある一首です。蓮の葉の上に置く露が涼しさを呼ぶと詠まれてきた先例を踏まえ、池の涼感を「池さむき」と詠んだところに式子内親王の独創性を感じます。

「露」というと秋の季節の歌材で、”はかなさ”を伝えるものとして草葉に置く姿を秋風と取り合わせてよく詠まれてきました。

夏の露は、次に訪れる秋の情趣を連想させて、夏の暑さを和らげて涼感を誘います。夏の露は、清浄さを象徴する蓮の葉と取り合わせられました。
池を覆うように浮く蓮の葉は「うき葉」と呼ばれ、夏の風物として歌に詠まれてきました。蓮の清らかなイメージと露の純粋美は、清涼感と同時に心を清らかにします。

式子内親王の歌では、夏の水辺の冷気が、秋の寒気を呼び起こします。蓮の葉に置く透明で、きらきらと輝く露は蓮の葉から消えた後、野辺を覆い、草葉を秋色に染め上げていきます。季節の移ろいに託した心の内を露によって象徴的に表現しています。

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萩の上露

minori-aki-s

おくと見る ほどぞはかなき ともすれば 風にみだるヽ 萩のうは露(源氏物語:紫の上)
Oku to miru hodo zo hakanaki tomo sureba kaze ni midaruru hagi no uha tuyu
(genjimonogatari:murasaki no ue)

『源氏物語』第40帖「御法(みのり)」で、秋の夕暮に病で衰えた紫の上が、源氏の見舞いの折に和歌を詠みかわした場面で詠まれた一首。
国宝「源氏物語絵巻」では、源氏が紫の上を見舞う場面で風の吹きすさぶ庭に植えられた秋草を眺めながら和歌を詠みかわした場面が描かれています。萩・桔梗・薄・女郎花(おみなえし)・藤袴(ふじばかま)などが野辺に咲いているかのように、庭に取り混ぜられて植えられており、雅な秋の野の美しさが想い起されます。
絵巻では、可憐な秋草が風にしなう描写によって紫の上を失うことを暗示させているとともに、最愛の紫の上を失う源氏の心の内、紫の上の想い、紫の上に付き添う明石中宮の想いを伝えています。秋草は、人事を象徴的に表すものとして文学と関わってきました。

優美で彩り豊かな秋草。秋の七草に数えられている草花は、色や形、花の大きさの変化に富んでいます。秋草は、取り混ぜられることで互いに引き立て合います。
秋草のたおやかさが強調される秋風。秋草それぞれの描く線は、秋風によって乱れることで緊張感を伝えます。脆く、儚いものの持つ美しさを伝える露。露の美しさは、玉にたとえられます。露は、風によって跡形もなく消えゆくものです。
秋草の中でも露を宿した姿が優美な萩に寄せて詠まれた紫の上の最期の一首を書と描画によって表しました。

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