植物と文学:Plant in the literature」カテゴリーアーカイブ

春雨

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春雨のふりそめしより 青柳の糸の緑ぞ色まさりける(新古今和歌集:凡河内躬恒 )
Harusame no furisomeshi yori aoyagi no ito no midori zo iro masari keru (Shinkokinwajashū:Ohshikouchi no Mitsune)

枯野に新緑が再生する恵みの春の雨。春の色の深まりを伝えていくものとして柳の新緑は春風とともに春雨と取り合わせても詠まれてきました。
夏の五月雨、冬の時雨とそれぞれの季節感を伝える雨の風情。
春の雨によって柳の新緑の瑞々しさが引き立たってみえます。
浅緑から緑が深まっていく季節感を和歌を書いた扇面の背景に緑のグラデーションの和紙を使い表しました。

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柳緑

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打ちのぼる 佐保の河原の青柳は 今は春べと なりにけるかも
万葉集:大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)

佐保川の堤には柳の青葉が春風にそよいでいます。平城京に続く大路には柳の街路樹が続いていました。古代、柳は神の依る木として考えられてきました。柳の新緑は、春を象徴するものとして捉えられ、万葉集には春の柳の芽吹きを詠んだ歌が多く入集しています。”みどり”という色名を使い、浅緑から春が進むにつれて緑の色も濃さを増していく様に春の深まりを感じとってきたことが歌を通じて伝わってきます。
佐保の地というと佐保山の春の女神、佐保姫も想い起されます。しだれ柳の浅緑のしなやかな枝を佐保姫が染めた糸に見立てられ、春風と取り合わせて和歌が詠まれてきました。
画像は、しだれ柳の柔らかな新緑と春風を和紙の柔らかな色合いと質感で表し短冊にあしらったものです。

“Willow”

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手折桜

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誰しかも とめて折りつる 春霞 立ち隠すらん 山の桜を (古今和歌集:紀貫之)
Tare shikamo tomete orituru haru gasumi tachi kakusu ran yama no sakura wo  (kokin Wakashū:Kino Tsurayuki)
春霞が立ち込めた深山の気配とその中に隠されてひっそりと咲く山桜をグラデーションの和紙の色合いで表しました。

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『雛がたり』と花雛 2

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泉鏡花の短編、『雛がたり』に書かれている、桜雛(さくらびな)、柳雛(やなぎびな)、花菜の雛(はななのひな)、桃の花雛(もものはなびな)、白と緋(ひ)と、紫(ゆかり)の色の菫雛(すみれびな)つくし、鼓草(たんぽぽ)の雛から発想を得たものを和紙で雛に表したものを並べてみたものです。

桜雛・柳雛は短冊飾り、花菜の雛・桃も花雛は紙雛(かみひいな)、菫雛は坐雛(すわりびな)、つくし・鼓草(たんぽぽ)の雛は草雛に近い形に表しました。
つくし・鼓草(たんぽぽ)の雛は、草の姿をそのままとどめた形に和紙を使ってまとめたものです。
つくしやたんぽぽからは生命感溢れる春の野の情景が思い起されます。源氏物語の第48帖「早蕨」の巻にある蕨とつくしのエピソードも連想されます。野で摘んだものが優美に飾られている姿が浮かびました。

4つの花雛は、実物の花に近い大きさで表しました。立体で表してみると、花雛としてみたときに、桜雛と柳雛は不可思議に感じられ、鏡花の創作のように思えてきます。そこには、花雛という概念を通じて伝えて残したいものが込められていることを感じます。

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菜の花と梅

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『古今集』編纂前夜、宇多天皇に学者・政治家として重用された菅原道真は、文壇の中心的存在でした。中国文学を享受し、日本独自の感性を漢詩に取り入れ、和歌との調和を図ることに貢献しました。道真が白居易の『白氏文集』の「三月尽詩」から摂取し独自の境地を開いた「惜春」は、和歌の歌題として定着していきます。 和歌と漢詩から成る『新撰万葉集』の撰進や、『万葉集』の整理・編纂を行ない宇多天皇に奉じたとも伝えられています。

梅賛美から桜賛美へと美意識が移り変わっていく過渡期、菅原道真は梅を愛でました。道真の邸宅は、紅梅殿と呼ばれていました。901年に大宰府に左遷されることなりますが、後に天満宮に祀られました。各地の天満宮の境内には道真を偲んで梅が植えられ、花の季節には梅の芳しい香りに包まれます。
また、道真のゆかりの地、京都の北野天満宮では、道真の命日2月25日に菜種の花を供える「菜種御供(なたねのごく)」が行われ、新暦となってからは、菜種に代わり梅の花が用いられて「梅花御供(ばいかのごく)」が行われています。
白梅・紅梅の小枝を紙立(こうだて)という、仙花紙という楮の白い和紙を筒状にしたものの中に挿したものが神前に供えられます。梅の花を挿した紙立は、紙と花を形代とした花雛に通じるものを感じます。

” Nanohana & Ume”
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雅と歌合

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歌合(うたあわせ)とは、歌人を左右二組にわけ、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争うものです。王朝の「雅(みやび)」を説明する上で、和歌とひらがなが互いに洗練されていく鍵として欠かせないものが歌合です。

王朝の雅の成立には、はじめての勅撰和歌集『古今和歌集』の編纂が背景にありました。『古今和歌集』撰集前夜、宮廷文学は嵯峨天皇・淳和天皇時代からの流れを受け継ぎ、漢詩文が第一に置かれていましたが、和歌復興の気運は徐々に高まりつつありました。
宇多天皇の御世のことです。宇多天皇は、菅原道真を重用し、中国文学にはない「惜秋(せきしゅう)」や「残菊(ざんぎく)」など日本独自の季節感・感性を漢詩に取り入れました。後に「惜秋」や「残菊」は和歌の題としても採用されていきます。「惜秋」や「残菊」は ”名残”を詠んだものです。過ぎ去ったあとの気配に心を寄せる ”名残”は、日本独特の感性として磨かれていきました。

その一方で宇多天皇は、和歌の文芸性を理解し、歌合(うたあわせ)を行い、『古今集』撰定への土台を築きました。『古今集』には漢文と仮名と2つの序文があることは、この時代の宮廷文学の方向性を示しており、漢詩文と和歌の調和を意図しているように思われます。『古今集』は、宇多天皇の皇子、醍醐天皇の勅命を受けて成立しました。

宇多天皇は、漢詩文で創り上げた「惜秋」や「残菊」など、日本独自の感性を歌合によって和歌に応用し、広めていきました。歌合は、単に歌の優劣を競うばかりでなく、装束、音楽、歌の景色を表した工芸品などの趣向を凝らすことで宮廷文化を洗練させていきました。和歌と和歌を書くためのひらがなによる文字表現の洗練は、それを書写する紙の製法技術、デザインの洗練へとつながりました。

画像は、宇多天皇が譲位されて法皇となった頃、催された「亭子院歌合(ていじのいんのうたあわせ)」(913年)より紀貫之と凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)が優劣を競ったものを書で表したものです。
左勝 貫之
さくらちるこのしたかぜはさむからで そらにしられぬゆきぞふりける
右 躬恒
わがこころはるのやまべにあくがれて ながながしひをけふもくらしつ
優劣の判定と批評は宇多法皇がされました。結果は左の貫之の勝ちです。引き分けになることもあり、持(じ)といいました。

歌合は、貫之の目指すところを実践する場でもありました。後世、歌合で詠まれた数々の優れた歌が勅撰和歌集に選ばれました。この流れは新古今集へとつながり、幽玄・余情といった理論が現われる背景となっていきます。

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春立つ日

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袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ (古今和歌集:紀貫之)
Sode hichite musubishi mizu no kohoreru wo haru tatsu kefu nokaze ya toku ran (Kokin Wakashū:Kino Tsurayuki)

『古今和歌集』では、仮名(かな)を書写に用いたことで平仮名(ひらがな)が洗練されるきっかけとなりました。紀貫之は能書家でもあり、『古今集』の清書にも関わったと思われます。
紀貫之は、赴任先の土佐から京に戻る道中の出来事を虚構を交えた日記に書き残しました。『土佐日記』と呼ばれるものです。『土佐日記』は、ひらがなを使って表記することにこだわりを持っており、その書き出しに漢字ではなくひらがなで表すことを宣言しています。

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。

当時、男性貴族は漢文で表記するのが日常であり、和歌よりも漢詩の才能が重視されていました。ひらがなは、当時女性が主に使っていました。書き手を女性の手によるものと設定したのも、漢字主体の文字表現から日本独自の文字表現を広げていきたいと願い、その想いが書き出しに現われていると思います。書き手を女性としたスタイルとひらがなでの表記は、その後の紫式部、和泉式部をはじめとする女性による日記をはじめ、随筆や物語などを生み出す力となったのではないかと思われます。
貫之が書いた日記は、自筆の原本が室町時代まで残っていたと伝えられており、自筆から臨書されたものも伝えられています。写本からは、流麗なひらがなによる表記を見ることができます。また、いくつかの文字を続けて書く連綿(れんめん)も見られます。

画像は、『古今集』より貫之の歌を書で表したものです。
夏に手ですくった清水の感触を想い出し、その水が冬の間に凍り、立春の今日の風が溶かしているだろうか、と詠んだものです。
『古今集』の第1巻の2番目に置かれた歌です。貫之が序文で示したように古の人の真心、清明心(きよきあかきこころ:清らかで、偽りのなく、私欲のない澄み切った心)が込められた心に響く優れた歌を想起し、新しい風によって和歌を再興させたいとの決意が伝わってきます。

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「雅」に想う

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「雅」という言葉からは、平安王朝の優美な世界が思い起されます。
大伴家持(おおとものやかもち)が万葉集の編纂をした奈良時代が終わり、平安遷都によって京に都が移されてから和歌は一時衰退しました。背景には、時代を刷新するために唐風一辺倒になり、漢詩が晴れの場で重んじられました。江戸から明治への時代転換点と似ているように思います。世の中が次第に落ち着くに従い、日本固有の情趣が見直されて和歌も復興されました。その中心になったのが紀貫之(きのつらゆき)です。万葉集から古今集が成立するまで、およそ150年。

紀貫之は『古今和歌集』の序文、仮名序で当時の和歌の現状を次のように書いています。

今の世の中、色につき、人の心、花になりにけるより、あだなる歌、はかなき言のみいでくれば、色好み の家に埋れ木の、人知れぬこととなりて、まめなる所には、花薄(はなすすき)穂に出すべきことにもあらず なりにたり。

人の心が派手になり、私事ばかりを詠み、真面目な歌は薄の穂ほども現われなくなったと嘆いています。歌の流れが絶えてしまったわけではなく、『古今集』の仮名序で貫之と近い時代の、僧正遍照(そうじょうへんじょう)・在原業平(ありはらのなりひら)・文屋康秀(ふんやのやすひで)・喜撰法師(きせんほうし)・小野小町(おののこまち)・大伴黒主(おおとものくろぬし)の名を挙げています。後世、六歌仙と呼ばれた歌人です。貫之は六歌仙の歌を評しています。

紀貫之は『古今集』の仮名序の書き出しで、今に受け継がれている花鳥風月の心を表しています。

やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。花になく鶯、水に住むかはづの声をきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。

貫之が心を植物の種に喩え、種から芽が伸びて葉が幾重にも広がっていくように新しい言葉、詞が次々に生まれ、いきいきと育っていく様に託したところは、日本の自然観、文化の根底を捉えていると思いました。

『古今集』にはもうひとつの序文、漢文による真名序があります。

和歌に六義あり。一に曰く、風。二に曰く、賦。三に曰く、比。四に曰く、興。五に曰く、雅。六に曰く、頌。

仮名による序文にも「和歌の六義(りくぎ)」を言葉を置き換え、和歌には6つのスタイルがあると歌を引き解説しています。
漢文による真名序では、『詩経』にみえる中国古代詩の6つの分類「風」「賦」「比」「興」「雅」「頌」を和歌に置き換えて示しています。「風」は諷刺、「賦」は直接的な表現、「比」は比喩を用いた表現をいい、上記の3つは表現法について示しています。
「興」は主題を引き出すものとして自然などを詠むこと、「雅」は宮廷賛美、「頌」は天を賛美したもので、上記の3つは歌の体裁を現わすものといえます。

ここで、「雅(が)」という言葉が注目されます。
詩経では「雅」は貴族や朝廷の公事・宴席などで詠われた歌詞をいいました。
紀貫之は仮名序で、和歌の衰えは宮廷での公事・宴席などの晴れ場に出せるような格調高い歌がみられなくなったことにあると述べ、和歌の復興に力を注ぎました。後世、王朝の「雅(みやび)」というイメージは貫之の理想、信念が形となって現われていったように想われます。

画像は、古今集の仮名序の書き出しを書で表したものです。
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春のしるし

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春の到来を告げる早蕨。早蕨は、春を告げる証として古より受け継がれてきました。
『源氏物語』第48帖「早蕨」からは、万葉集の志貴皇子(しきのみこ)の歌が連想されます。

いはばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(万葉集:志貴皇子)
Iha bashiru tarumi no ue no sawarabi no moe iduru haru ni nari ni keru kamo (Manyoushū:Shikinomiko)

勢いよく水が流れる滝のほとりの爽やかさと、「春のなりにけるかも」という詞がきっぱりとしていて、”春が来た”という感動がいきいきと伝わってきます。

『源氏物語』第48帖「早蕨」で、山寺の阿闍梨(あじゃり)が土筆(つくし)や蕨を神仏や主君にささげる初穂として中君に贈ったことが書かれています。初物の蕨が神聖な供物として扱われていたことが読み取れます。
蕨や土筆、芹(せり)などを献上して食する行事を「供若菜(わかなをぐうす)」といい、若菜を摘んで災厄を祓う風習が宮中の儀式となり、美しい籠や折櫃(おりびつ)に入れられて献上されました。
早蕨については、『源氏物語』の第46帖「椎本(しいがもと)」にも書かれています。

君がをる峰の蕨と見ましかば 知られやせまし春のしるしも (源氏物語:大君)

第48帖「早蕨」にも登場する山寺の阿闍梨(あじゃり)から土筆(つくし)や蕨が初穂として中君、大君姉妹のもとに届きました。届けられた蕨を見て、姉の大君が ” 亡き父が摘んだ蕨としてみることができましたら、春を知らせてくれるしるしとなりますものを ” と詠んだ歌です。この歌から、紫式部は早蕨を「春の証」と捉えています。
紫式部が芽吹いたばかりの蕨の美しさに注目したところは、志貴皇子が詠んだ歌の心を受け継いでいるように思いました。

万葉集の時代、芽吹きの美というと柳に感じていました。万葉集の中でも「早蕨」は特異なものです。
蕨を詠んだものは万葉集ではこの歌のみで、「早蕨」という言葉の響きには”早春”という命が再生する瑞々しい季節感を印象付ける力が込められいて心惹かれます。
春の到来の歓びが清々しく伝わってきて、今も歌の心は受け継がれています。
平安時代には、「岩そそぐ垂氷のうへのさわらびの萌えいづる春になりにけるかな」という詞の形で古今和歌6帖や和漢朗詠集に載せられました。神聖で、春の到来を告げる証として紫式部は巻名を「早蕨」としたと考えられます。志貴皇子の歌は、「岩そそぐ垂氷のうへのさわらびの萌えいづる春になりにけるかな」という形で新古今和歌集にも選ればれており、後世の琳派にも受け継がれていると思われます。

平明で力強い詞の響きを書で表しました。料紙には素朴な味わいの和紙を選びました。

“Sawarabi”
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